ID:87518
与太郎文庫
by 与太郎
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■ 転才 〜 くもとハチのはなし 〜
 
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>>
 
 ガラス戸のくもの話            金谷 昭良
 
 何時かこんな事を本で読んだ。それは誰が書いたのかということも忘
れている。
「私が或朝、一匹のくもを見付けた。ガラス戸とガラス戸の間に、どこ
からも、出られなくなっているくもを……。子供達に“来てごらん。く
もがこんな所にいるよ”子供達は奥の間から飛んで来て、不思議そうな、
おそろしそうな顔をして、じっと見つめていた。……」
 日中家に居る私は、便所へ行く時には必ず、このくもを見た。くもは
じっと動かずにガラス戸のあわさで待機していた。驚きもせず、あわて
ず、ガラス戸の中で身動きもせずにいた。家中で夕食を摂りながら“あ
のくもはあのまゝで何日位じっとしているだろう。あそこにいるとまづ
外へはでられまい。お腹もすいてくるだろうし、外へ出ようと思ってガ
ラス戸の中であばれ出すだろう。しばらくあのままで観察して見よう”
 こう云って子供達にあのガラス戸を動かさないでおくように云って置
いた。
 朝も便所へ行く、一日に何回かくもを見た。しかし翌日も翌々日もく
もは身動きだにしなかった。じっとしていた。“お父ちゃん、くもって
一寸も外へ出ようとあわてないね”女の子はいかにも不思議そうに云っ
た事もあった。夏の夕方いそがしそうに巣を張るくもなのに、ガラス戸
に閉じ込められたこのくもは一週間たってもじっと死んだ様に動かなか
った。
 十日たった。やはり最初見つけた時の様にじっとして動かなかった。
十日間も何も食べずに居る。
 少し私も驚きかけた。よくこんなに食べずに居られるものだ。人間が
十日も食べずにいると“食べさせろ、殺す気か”などとさぞかし大声で
家の人達にどなりつけるだろう。そして、もがいて、もがいて心か身が
怒でかたまるだろう。そう考えるとこのくもはずい分忍耐強い。動くこ
とすらしないでいる。私がこのくもだったらどこか出口はないものかと
一日中、ガラス戸の中を右往左往するだろう。
 そして食べ物がないかとガラス戸の中を一生懸命さがすだろう。
 とうとう二週間たった。半月になったのである。子供達はもう見るの
も忘れてしまった。何度となく便所へ行く私は くもはガラス戸にぴた
りとひっついて 死んでいるのかな 腹がへって動けないのかも知れな
い。観察しようと思った心は何時の間にかこのくもの辛抱強さに負けて
居た。それは同情だったかも知れない。それでもいいと思う様になって
来た。
 丁度二十三日目の朝だった。どやどやと子供達がよって来た。
“お父ちゃん、まだ見ているの、可哀そうよ”私もそんな気がした。
 女の子が一寸ガラス戸に手をふれた。
 カタリ、と音がして一センチばかりのすき間が出来たかどうかわから
ない位の時。じっとしていたくもがすばやくその間をくぐりぬけて外へ
出て居た。
“あっ”と言ってまばたきを一つする瞬間だった。
 戸袋の外へくもは逃れ去って居た。
“逃げた、逃げた、ほらあそこだよ”子供達が指さす方にくもはゆうゆ
うと逃れ去って行った。──と云うよりゆうゆうと去って行ったのであ
る。今まで少し可哀そうだと思っていた私は“しまった”と思った。だ
まされた心地がした。くもは去った。
 私は書斎で書き物をしようとしたが、くもの事が気になった。くもが
ガラス戸に閉じ込められてから、私の気持はこんなに変って行った。
 ○ よーし、観察してやろう。根くらべだ。
 ○ 面白い奴だ。何時までじっとしてるんだ。
 ○ まだじっとしている。
 ○ まだじっとしている。
 ○ やっぱり、じっとしている。
 ○ あれまだヾ。腹がへらんのかな。
 ○ 腹がへって動けまい。どうする気なんだろう。
 ○ 開けてやろうか。死んじまうから。
 ○ 死んぢゃったのかな。可哀そうに。
 二十三日目の朝、私の気持を根本からくつがえして、さっと逃げて行
った。負けた。くもに負けた。
 可哀そうにと思っていた気持は、ぐらぐらっとくずれて、“しまった。

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07月16日(木)
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