ID:87518
与太郎文庫
by 与太郎
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■ 南京日誌 〜 百人斬り報道の虚実 〜
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19371209
 

 
 南京事件 〜 南京大屠殺 Nanking Atrocities/Rape of Nanking 〜
 
19370809(火)第二次上海事変、始まる。
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  1105(金)上海防衛の中国軍は、杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われ総退却
  1106(土)
  1107(日)
  1108(月)
  1109(火)
  1110(水)
  1111(木)
  1112(金)
  1113(土)第16師団は揚子江下流に上陸。南京へ敗走する中国軍を追撃。
 向井 敏明は第9連隊第3大隊第3歩兵砲小隊の小隊長、階級は陸軍少尉。
  1114(日)
  1115(月)〜1118( )南京で高級幕僚会議
 トラウトマン和平調停工作の影響の考慮から、南京固守作戦の方針が決まる。
  1116(火)
  1117(水)
  1118(木)
  1119(金)
  1120(土)蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命、
 唐生智は重慶遷都を宣言、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始める。
  11下旬(?)南京防衛軍の動員兵力は約10万人に達したと言われる(台湾の公刊戦史他)。
  1129(月)常州の無錫郊外で向井 敏明は東京日日新聞の浅海記者と初会(以後会わず)。
  1130(火)向井敏明、野田毅の百人斬り競争(東京日日新聞と大阪毎日新聞による第1報)。
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  1201(水)中支那方面軍(上海派遣軍と第10軍)に南京攻略命令を下達。
  1202(木)向井敏明、丹陽で負傷、1215まで看護班に収容され治療を受ける。
  1203(金)
  1204(土)新聞による百人斬り競争報道の第2報。
  1205(日)
  1206(月)新聞による百人斬り競争報道の第3報。
  1207(火)南京郊外の外囲陣地が突破、蒋介石は南京を離れる。
  1208(水)中支那方面軍が南京を包囲
  1209(木)日本軍、南京城を包囲、松井石根が翌日正午を期限とする投降勧告
  1210(金)日本軍、南京城を総攻撃
  1211(土)蒋介石は南京固守を諦め、唐生智に撤退を命令する。
  1212(日)夕方に唐生智は撤退命令を出すが、全軍に伝わらなかった。
 
── 中華門を攻略していた歩兵第66連隊は、「日本軍は捕虜は絶対に
殺さない」と中国軍に投降勧誘を行い、その結果1500人余の中国軍兵士
が投降してきました。── 《野州兵団奮戦記 19371212》
 
  1213(月)南京陥落、城壁は突破され、中国軍は総崩れとなる。
       新聞による百人斬り競争報道の第4報。
── 《百人斬り“超記録”19371213 東京日日新聞》
 
  1214(火)南京城内を掃討(第16師団・中島今朝吾中将)
── 「捕虜を取らず、殺害する方針である」── 中島 今朝吾《日記 1937121.》
  1215(水)
── 最もふさわしい言葉で表現するならば、“地獄の四日間”という
ことになろう。── A・T・ステイール《米艦オアフ号より 19381215》
 
── われわれが見たものは、日本軍が広場で一千人の中国人を縛り上
げ、立たせている光景だった。そのなかから順次、小集団が引きたてら
れ、銃殺された。脆かせ、後頭部を撃ち抜くのである。
── スミス(ロイター通信記者)の講演
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/shoho.html
 
  1216(木)幕府山事件(南京城北部を進軍中、大量の投降兵に遭遇)
── 南京北方の幕府山で捕虜約14,000名を殺害。「上部組織からの命令だった」
── 第13師団山田支隊(第65連隊基幹長・山田 栴二《日記 19371216》陸軍少将
 
  1217(金)南京入城式後の安全区掃討“17日の虐殺”
  1218(土)
── 二〇〇人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は一〇分であった。
── F・ティルマン・ダーディン《ニューヨークタイムズ 19371218 America》
 
── 復興委員会に救済をもとめてやってきた一万三五三〇家族が委員
会に報告した負傷者のうち、三月中の調査によれば、強姦による傷害は

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12月09日(木)
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