ID:87518
与太郎文庫
by 与太郎
[1057830hit]
■ ロマノフ王朝の最期 〜 Расстрел царской семьи 〜
┌─────────┐
│
│ adlib/19180717
│
│ http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19180717
│ http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
│ https://tx696ditjpdl.blog.fc2.com/?q=00000000
│
│ https://note.com/adlib20210301/all
│ https://booklog.jp/users/awalibrary/
│ https://q.hatena.ne.jp/adlib/
│
│ https://twilog.org/awalibrary
│ https://twitter.com/awalibrary
│ https://www.facebook.com/masatoshi.awa
│
└─────────┘
ロマノフ王朝の最期 〜 Расстрел царской семьи 〜
Nikolai, Aleksandrovich 18680518 Russia 19180717 49 /銃殺(地下で計11人)
/18680506-19180704 Julius/14[18941101-19170315] 18910511 大津事件
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19921107
── 保田 孝一・編《最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記 19900620 朝日選書》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4022595035
津田 三蔵 18550215 武蔵 釧路 18910930 36 /安政 1,1229 Tuda, Sanzou
/元陸軍軍人、警察官“大津事件”の犯人。北海道で獄死。“児島裁定”
児島 惟謙 大審院長8 18370307 伊予 東京 19080701 71 /[18910506-18920824] , Korekata
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20240411
津田 左右吉 東洋史学 18731003 岐阜 東京 19611204 88 /東京専門学校卒
── 《上代史と東洋史の研究 1960 朝日賞》
── 《文学に現はれたる我が国民思想の硏究》
── 《古事記及び日本書紀の研究》
── 《神代史の研究》
── 《日本上代史研究》
── 《上代日本の社会及思想》
“津田 左右吉は、白鳥 庫吉の影響を受け。家永 三郎に影響を与えた”
白鳥 庫吉 東洋史学 18650301 千葉 神奈川 19420330 77 /Shiratori, Kurakichi
家永 三郎 東洋史学 19130903 名古屋 東京 20021129 89 /Ienaga, Saburou
…… 津田氏は、伊勢国 津藩[1](藤堂家、32万石)に藩医として仕え
た家柄で、家禄は130石[1]であった。父は津田 長庵、母はきの。三蔵
は次男で、兄の養順は家出して行方不明、弟の千代吉は憲兵を経て三吉
電気工場の職工となる。妹が一人おり、町田 義純へと嫁いだ。津田家
は江戸下谷柳原(現在の東京都台東区)に居住していたが、三蔵が7〜
歳の頃(文久年間)に長庵が刃傷沙汰を起し、減封処分の上で伊賀上野
へ転居、長庵は生涯蟄居の身となった[2]。(Wikipedea)
1878、戦闘での疲れからか病に度々陥り入退院を繰り返していたが、
の最中の10月9日、功績が認められ勲七等を授与された。18820109 陸軍
を退役し、同年0315 三重県警巡査となり松阪署に勤務した。1885 不和
となっていた同僚に親睦会で暴力をふるい免職となる。12月、滋賀県警
に採用される[3]。滋賀県警における勤務は勤勉で、功労褒章を2度受賞
している[4]。私生活では、岡本 瀬兵衛の娘・亀雄と結婚、長男元尚、
長女みつの二児を得た[5]。
18910511、来日中のロシア皇太子ニコライが滋賀を経由するため、
守山警察署より応援に派遣される巡査の一人に抜擢される。沿道警備の
現場において、皇太子をサーベルで斬りつけ、負傷させた(大津事件)。
犯行の動機を裏付ける供述は得られておらず諸説ある。ロシアとの間
で結ばれていた不平等条約に不満を持っていたからとも、ニコライ一行
が日本人車夫をひざまずかせて説明させていたことに憤りを感じた、西
南戦争の記念碑に素通りした、西郷 隆盛がニコライと共に帰国し、明
治天皇が西南戦争の功労者に授与した勲章を剥奪するという伝聞を信じ
ていたも言われ、「一本(一太刀)献上したまで」という意味の供述を
したため、斬りつけはしたが、衝動的な犯行で殺意はなかったとも言わ
れる。津田には精神病歴があった。
[5]続きを読む
07月17日(水)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る