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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 啓蒙専制君主 〜 enlightened despotism 〜
 さらに、フランスやロシアとの関係改善に努めて、再び七年戦争の孤
立に陥らないよう細心の注意をもって臨み、アメリカ独立戦争に際して
はロシアが提唱した武装中立同盟に参加し、イギリスの対米海上封鎖に
対抗した。
 
 フリードリヒ2世は女性を蔑視する発言をたびたび公の場でしており、
フランスのポンパドゥール夫人やロシアのエリザヴェータ皇帝が七年戦
争においてマリア・テレジアに味方したのは、彼女たちがフリードリヒ
を個人的に嫌っていたからだと言われている。
 
 晩年
 アントン・グラフ(Anton Graff)による1781年の肖像画。ヒトラーが
官邸に掛けていた絵画でもある。
 平和を手に入れた後のフリードリヒ2世は再びサンスーシに戻り、忙
中に小閑を楽しむ穏やかな生活にかえった。王の余生は、忙しい政務の
中で時間を作っては文通やフルート演奏・著述を楽しむ日々で、このこ
ろ『七年戦争史』(もとは『我が時代の歴史』とも)を著している。ま
た1780年の『ドイツ文学論』でドイツ文学と統一ドイツ語について論じ
た。晩年にはベルリン市民から親しみを込めて「老フリッツ」との愛称
で呼ばれていた。
 しかし、晩年のフリードリヒ2世は次第に孤独で人間嫌いになり、人
を遠ざけるようになっていった。姉のヴィルヘルミーネ王女やダルジャ
ンス侯爵など親しい人々は既に世を去り、愛犬のポツダム・グレイハウ
ンドたちだけが心の慰めだった。もともと優れない健康もさらに悪化し、
心臓の発作や水腫、呼吸困難に悩まされ、一日の大部分を肘掛け椅子で
過ごした。「もう牧草地に放り出してもらうより他あるまい」と自嘲し
つつ、最後の願いとして愛犬たちのそばに埋めてほしいと頼んだという。
 
 フリードリヒ2世は1786年8月17日、サンスーシ宮殿で老衰により崩御
した。遺体は遺言に相違して、ポツダム衛戍教会に葬られた。その後、
第二次世界大戦中に遺体は各地を転々とさせられるなどの運命をたどっ
たが、ドイツ再統一後の1991年、サンスーシ宮殿の庭先の芝生に墓が移
され、現在は生前の希望通り犬たちと共に眠っている。
 
 音楽
 
 サンスーシ宮殿でフルートを演奏するフリードリヒ2世 アドルフ・
フォン・メンツェル画
フリードリヒ2世の宮廷には当時の第一級の音楽家が集い、フルート奏
者で作曲家のクヴァンツ、1732年から大王に仕えたヴァイオリンの名手
で作曲家グラウン、同じくヴァイオリンの名手で作曲家フランツ・ベン
ダらがいた。また、大バッハの次男C・P・E・バッハが1740年から1767
年までチェンバロ奏者として仕え、父の大バッハをフリードリヒ2世に
紹介している。
 
 ドイツ・フルートと呼ばれる横型フルートは表現力に富むため、フリー
ドリヒ2世が好んだという。1735年(23歳)から1756年(44歳)にかけ
て、自分の楽しみのためのフルート曲を作曲している。彼の作曲数は多
く、フルート・ソナタだけをとっても実に121曲に及ぶ。その作品とし
て『フルートのための通奏低音付きソナタ』『フルート協奏曲』などが
いまに伝わっており、比較的演奏機会のある曲に『フルート・ソナタ第
111番ニ長調』がある[* 3]。
 
 1747年(35歳)、62歳の大バッハがポツダムを訪問した際、フリード
リヒ2世がバッハの即興演奏のために与えたといわれるテーマを基に、
バッハの『音楽の捧げもの』が誕生したと伝えられる。
 
 七年戦争中にプロイセン陸軍が行軍中や戦闘中に演奏していた『ホー
エンフリートベルク行進曲』はフリードリヒが作曲したと言われている
が、それに歌詞が付けられたのは後年のことである。
 
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01月24日(日)
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