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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 音のドレミ・紙のABC・色のイロハ 〜 Sound, Paper, Color 〜
皇が国土を治めていたことを説く為に造作されたもので、史実的な資料
価値は全く無い。
 このことについて、蓑田胸喜や三井甲之らが津田を「日本精神東洋文
化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪思想家」として不敬罪に
あたるとして攻撃した[8][9]。これを受けて政府は、1940年(昭和15年)
2月10日に『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代
史研究』『上代日本の社会及思想』の4冊を発禁処分とした[注 3]。同
じ頃に津田は文 部省の要求で早稲田大学教授も辞職させられ、3月に
出版元の岩波茂雄と共に東京地方検事局の取り調べを受けた。検察側の
起訴理由は以下の通りで、津田の主張を明確に表している。
 
『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』
『上代日本の社会及思想』の中に次のような内容が含まれている。
 
 神武天皇(初代)から仲哀天皇(14代)までの歴代天皇の存在を否定
する記事がある。
 神武東征及び景行天皇の筑紫巡行・熊襲親征、日本武尊の熊襲征伐・
東国経略、神功皇后の三韓征討など、上代における皇室の事蹟を、全て
否定している。
 現人神である天皇の地位は祭祀を行う役割に由来するものとしている。
 天照大神は神代史作者が観念上、創作したものとしている。
 天照大神を始めとする皇室系譜上の神々は、朝廷による支配を正当化
するための政治的目的で創作された存在としている。
 皇極天皇以前の神勅、詔勅は、全てのちの人が創作したものとしてい
る。
 仲哀天皇以前の皇統譜には、意図的に手が加えられているとしている。
 仁徳天皇の仁政は、中国の思想をもとに創作された物語としている。
 皇室系譜の神々は、天皇の統治権を確立し、皇室の権威の由来を説明
するために、創作された物語上の存在であるとしている。
 天照大神からニニギノミコトに賜った神勅には、中国の思想を含み、
かつ日本書紀編者の手が加わっているとしている。
 これはいずれも皇室の尊厳を冒するものであり、出版法第26条に違反
する[10]。
 
 やがて津田は3月8日に起訴、不拘束のまま予審に回附された[11]。19
42年(昭和17年)5月に禁錮3ヶ月、岩波は2ヶ月、ともに執行猶予2年の
判決を受けた。津田は控訴したが、1944年(昭和19年)に時効により免
訴となった。
 
 この一連の出来事を津田事件また津田左右吉事件ともいう[注 4]。
 戦後、津田自身の戦前における弾圧の経験と相まって学界に迎えられ
た。
 
 津田は歴史を政略の具にするべきでないとして、儒教、仏教、神道、
国学などによる歴史観に反対し、また左翼思想にも同様に反対[13]、一
貫して共産主義には否定的であり[14]、戦後の共産主義の流行には批判
的であった。当時東京大学法学部の助手であった丸山眞男によると、
「先秦政治思想史」の最終講義の終わりに津田を講師控室に導いた際に
大勢の人々が押しかけて来て、その中の1人が「津田先生の立場は唯物
史観ではないか」と迫られた時に、津田は素早く「唯物史観は学問なん
かじゃありません」と一蹴したという[2]。
 
 1946、雑誌『世界』第4号に発表した論文「建国の事情と万世一系の
思想」では、「天皇制は時勢の変化に応じて変化しており、民主主義と
天皇制は矛盾しない」と天皇制維持を論じる[15]。天皇制廃止論者達か
らは「津田は戦前の思想から変節した」と批判された[16]が、津田の
「天皇制を立憲君主制に発展させるべき」との考え方は戦前から一貫し
たもので、戦後になって変化したわけではない。
 
 1947、帝国学士院会員に選出[注 5]。1949年(昭和24年)に文化勲章
受章。1960年(昭和35年)に美濃加茂市名誉市民第1号に選ばれた。
 
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04月11日(木)
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