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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 啓蒙専制君主 〜 enlightened despotism 〜
成したクノーベルス男爵の手になるサンスーシ宮殿だった。王自らも設
計にたずさわったこの宮殿は、ロココの粋を尽くし、室内は「フリード
リヒ式ロココ」(Friderizianisches Rokoko)様式による瀟洒なものだっ
たが、部屋数わずか10あまりの平屋建ての小さな建築である。ここで王
は政務のかたわら、ヴォルテールなどごく少数の気が置けない友人たち
と音楽や社交を楽しみ、くつろいだ時間を過ごした。
七年戦争 (1754年-1763年)
詳細は「七年戦争」を参照
平和な日々は長くは続かず、1755年後半、オーストリアの「女帝」マ
リア・テレジアはロシア女帝エリザヴェータ・フランス王ルイ15世の愛
妾ポンパドゥール夫人と組んでシュレージエンの奪回を企てていた。
1756年1月16日、フリードリヒ2世は母方の伯父のイギリス王兼ハノー
ファー選帝侯ジョージ2世とウェストミンスター協約を締結したが、5月
1日に外交革命としてフランスとオーストリアがヴェルサイユ条約を締
結、8月29日、フリードリヒ2世は先制防衛策をとることに決め、ザクセ
ン選帝侯領に侵攻して七年戦争(第三次シュレージエン戦争)が始まる。
墺仏露の3国に加えてスウェーデン、ザクセンなどドイツの諸侯も加
えると、敵国の人口は8,000万にもなり、人口400万のプロイセンにとっ
て絶望的かと思われる戦いだった。フリードリヒ2世は、序盤のロスバッ
ハやロイテンにおいて、巧みな戦術で自軍より倍以上の敵軍を破ったも
のの、孤立同然のプロイセンの兵力は消耗し続けた。1757年6月18日に
コリンの戦いで大敗した後は守勢に転じた。コリンの戦いでは劣勢の自
軍を鼓舞するため、第3連隊の旗を手に「犬どもが、ずっと生きていた
いのか?」という言葉を放ったとされている[* 2]。
1759年8月12日のクーネルスドルフの戦いではフリードリヒ2世自ら敵
弾にさらされて上着を打ち抜かれ、乗馬は2頭まで撃ち倒されて敗走し
ている。この時の大臣宛の手紙には「これを書いている間にも味方はど
んどん逃げている。私はもうプロイセン軍の主人ではない。全ては失わ
れた。祖国の没落を見ずに私は死んでいくだろう。永久に。アデュー」
と書かれている。フリードリヒ2世はその後、残存兵力をまとめてどう
にか態勢を立て直すが、苦しい戦いは続き、1760年10月にはとうとうオー
ストリア軽騎兵がベルリンに迫るまでになる。
イギリスの軍資金援助も打ち切られ、フリードリヒ2世は自殺を覚悟
したが、1762年1月5日、ロシアのエリザヴェータ女帝が急死すると、甥
で後継者のピョートル3世はフリードリヒ2世の崇拝者であったため、奇
跡的にロシアとの講和が成立した。ただ、ピョートル3世はこの講和に
加え、皇后である妻・エカチェリーナ(後のロシア大帝エカチェリーナ
2世)を排したり、ロシア正教会を弾圧したため、激怒したエカチェリー
ナと彼女を支持する近衛部隊によって半年後にクーデターを起こされて
失脚。その近衛部隊兵に暗殺されることになる。
さらに西ポンメルンで苦戦を強いられていたスウェーデンも、フリー
ドリヒ2世の妹であるスウェーデン王妃ロヴィーサ・ウルリカの仲裁に
より、同年5月に講和する。疲れ果てていた列強はこれを機に兵を収め、
孤立したオーストリアに勝利を収めたフリードリヒ2世は1763年2月10日、
フベルトゥスブルクで和議を結び、プロイセンのシュレージエン領有は
確定する。
フリードリヒ2世はこれ以降、大きな戦争を起こすことはなかったが、
1772年の第1回ポーランド分割で西プロイセンを獲得して、飛び地状態
だったブランデンブルクと東プロイセンを地続きとし、1778年から1779
年まで続いたバイエルン継承戦争ではオーストリアと再び交戦してその
強大化を阻止した。なお、西プロイセン獲得に伴い、王号をプロイセン
における王(König in Preußen)からプロイセン国王(König von Preu
ßen)に変えている。外交面では特にオーストリアの復興を強く警戒し、
ザクセン選帝侯やバイロイトなどと君侯同盟を結成して対抗した。
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01月24日(日)
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