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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 高倉健の喜怒哀楽
 映画は活字とちがって、誤植を改めたりできないから、こういうケア
レス・ミスは、あってはならない。
 この曲の他に、クロード・チアリのギターソロを、あわせて用いてい
るのも何だかそぐわない。
 レコードを使って費用を節約したのは、かのヌーベルバーグ時代のア
イデアで、《勝手にしやがれ》がモーツァルトのクラリネット協奏曲
(二番はない)、《恋人たち》ではブラームスの弦楽六重奏曲・第一番
・第二楽章、というふうに選曲そのものに、しゃれたインテリジェンス
がうかがわれた。
 映画監督とか製作者は、博覧強記、相当な勉強家であるはずだが、わ
が国の場合、音楽に関しては無教養な人ばかりとみえて、この種のポロ
が多すぎる。ヌーベルバーグに便乗して作られた日活の《狂った季節》
果実ではなく、川地民夫主演のものでは、ただちにチャイコフスキーの
交響曲・第六番が採用された。その理由は、眠っている主人公が、急に
大音響で目を覚ますという、単なる偶然につじつま合せるだけが目的で
あった。
 《冬の華》では、美少女→感傷→チャイコフスキー、というシロウト
くさい連想で選んだらしい。おまけに美少女が、最近バイオリンを勉強
しはじめた、という設定も奇妙である。ピアノでよかった。脚本家は、
どうしても美少女にバイオリンのケースを持たせたかったらしい。ただ、
それだけの理由というのは芸がない。17才にもなって、バイオリンを始
めるなど、教えるほうが困るにちがいない。
 小道具として、不消化なのは、題名の《冬の華》についても同じこと
がいえる。トルコあがりの女が、三度ばかり登場する画面の前後に“氷
華”がアップされる。題名にするのはどうか。
 思いだすままに挙げていくと、だんだんポロが出てきそうだが、先に
述べたように、脚本家がテレビドラマの専門家であることに関係するの
ではないか。降旗康男監督も、映画にとって活かすべき小道具と、不必
要な小細工の区別をはっきりすべきではなかったか。
 予算がないから、ありふれたレコードを使い、それではケチをつけら
れそうだから、クロード・チアリを足して、なんとかくギターソロを演
らせた、という気配が明らかである。チアリは名手にちがいないが、すっ
かり日本人に迎合しているようで、チマチマした演奏ぶりである。ひと
りで全篇を担当するくらいの勇気が試されてもよかった。その場合でも、
ミキシングや、テープの切り貼りは、映画も音楽も知りぬいた専門家が
必要であることに変りはない。
 
 高倉健の演技開眼 彼は足を洗えるか
 
 最後に、高倉健の四つの表情のうち、楽しみを表現しているのは、彼
がなにか食っているシーンである。
 食事の演技力として、もっとも有名なのはジャン・ギャバンだった。
しがない運転手の役から、貴族的なギャングのボスにいたるマナーのち
がいを、明白に演じわけた、とも評された。これも一種のスターにおけ
る、観客側の想像力かもしれないが西欧では、発音だけで階級が判る、
といわれるくらいだから、メシの食い方は、役者にとって重要な部門に
ちがいない。
 残念ながら、高倉健だけでなく、日本の役者で食事のマナーを使いわ
けできる人は、きわめて少数である。テレビドラマでやたら食事のシー
ンが多いにもかかわらず、みんながでたらめにテンデバラバラの食べか
たをするものだから、どれを参考にすべきか判らなくなってしまった
(余談になるが、現代日本の20才の青年たちのうち、キチンと箸を持て
るのは半数か、それ以下だそうである。ナイフやフォーク、エンピツに
至っては、絶望的と思われる)。
 高倉健の場合、貴族的な食べかたではなく、そうだからこそ彼の人気
を支えるファン層が失望せずにすむ。その要点を挙げてみると、まず無
表情であり、とくに旨そうでもなく、不味そうでもない。実はこの真似
がむずかしいのである。淡々として上品ぶらず、卑しからずロを動かす
技術は、もっと研究されてしかるべきである。
 旨そうに食おうとすれば、わざとらしい。不味そうに食えば卑しくな

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10月09日(月)
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