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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 啓蒙専制君主 〜 enlightened despotism 〜
軍を、周囲の予想に反してさらに増員し、戦争に備えていた。ただし、
父の作った巨人連隊は廃止された。
オーストリア継承戦争 (1740年-1748年)
ハプスブルク家の相続問題については「マリア・テレジア」を、オー
ストリア継承戦争全体については「オーストリア継承戦争」を、シュレー
ジエン侵攻の理由については「シュレージエン戦争」を参照
第一次シュレージエン戦争 (1740年-1742年)
戦役の詳細については「第一次シュレージエン戦争」を参照
1740年10月20日、神聖ローマ皇帝カール6世が急逝した。国事詔書に
よってハプスブルク家領は娘のマリア・テレジアが相続した。フリード
リヒ2世はこれを承認する見返りにボヘミア王冠領(ハプスブルク帝国
の構成国)のシュレージエン(現在のポーランド南西部からチェコ北東
部)の割譲を求めたが、マリア・テレジアは拒否した。フリードリヒ2
世は1740年12月16日、宣戦布告することなしにシュレージエンに侵攻し
た(第一次シュレージエン戦争の開始)。先帝カール6世の遺した国事
詔書を反故にしての進軍だった。シュレージエン急襲は成功し、プロイ
セン軍はわずか戦死22人の損害で占領に成功した[4]。これ以降、かつ
ての婚約者候補だったハプスブルク家新当主マリア・テレジアとフリー
ドリヒ2世は生涯の宿敵となった。翌1741年4月10日モルヴィッツの戦い
でプロイセンは圧勝を収め、プロイセンの台頭を各国に印象付けること
に成功する。5月にバイエルン・フランス・スペインがニンフェンブル
ク条約でオーストリアを包囲する同盟をむすんだ[5]。フランスはプロ
イセンとザクセンとも同盟した。ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグ
スト3世はボヘミアの継承を主張して侵攻したが撤退し、オーストリア
と同盟した。一方、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはフランス
とむすび上オーストリアとボヘミアへ侵攻し、1741年12月ボヘミア王と
して戴冠し、翌1742年には弟のケルン大司教クレメンス・アウグスト・
フォン・バイエルンによって神聖ローマ皇帝カール7世として戴冠され
た。しかしハンガリーと組んだマリア・テレジアの反撃によってバイエ
ルンを奪われた。
フリードリヒ2世は1742年5月17日コトゥジッツの戦いでハプスブルク
帝国に勝利し、1742年7月のベルリン条約でシュレージエンの割譲を認
めさせた[6]。
フリードリヒは、士官の膝枕で仮眠をとったり、負傷した兵卒の傷の
手当てに自らのハンカチを差し出すなど、階級の上下を問わず将兵との
交流を好み、絶大な人気を得ていた。
第二次シュレージエン戦争 (1744年-1745年)
戦役の詳細については「第二次シュレージエン戦争」を参照
1744年、イギリスと組んだマリア・テレジアの反撃に対して、フリー
ドリヒ2世はカール7世のバイエルンと組んでベーメン(ボヘミア)に侵
攻したが、敗れた(第二次シュレージエン戦争)[6]。しかし1745年6月
4日のホーエンフリートベルクの戦いでプロイセンは大勝利を収め、さ
らに1745年12月15日のケッセルスドルフの戦いでもザクセン軍に勝利し
た。12月25日のドレスデンの和議でプロイセンは、マリア・テレジアの
夫フランツ1世の神聖ローマ皇帝即位を承認する代わりにプロイセンに
よるシュレージエン領有権を承認させ、ザクセンからの賠償金100万ター
ラーも得た[6]。
戦間期
サンスーシ宮殿
サンスーシ宮殿音楽演奏室。
「サンスーシ宮殿」を参照
戦後の日々、フリードリヒ2世はプロイセンの復興に全力を尽くした。
細かい点まで自分で確かめなくては気の済まない王のチェックに官僚た
ちは恐々としたが、産業の振興、フランスからやって来たユグノー(カ
ルヴァン派)の移民などの受け入れなどによってプロイセンは再び力を
付けていった。しかし、激務のためフリードリヒ2世の体は蝕まれ、リ
ウマチ、歯、胃痛、痔、発熱、痛風などで絶えず痛みと戦わなければな
らなかった。そんな王の心を慰めたのが、1745年から1747年にかけて完
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01月24日(日)
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