ID:87518
与太郎文庫
by 与太郎
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■ 一芸の人々 〜 情報美学外論 〜
 以後、十五ヶ月半におよぶ休学・闘病がはじまった。
 
「鈴なりの柿は晩秋の風物で柿が赤くなると医者が青くなると言われる」
── http://www5c.biglobe.ne.jp/~fuga/haikusaijiki/houseki/ad_l.html
(以下、医師列伝につづく)
 
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■2002/11/15 (金) 医師列伝・断章
 
 これまでの生涯に、胸襟をひらいた医師は数十人におよぶ。家族の分
を加えれば百人ちかい(媒酌人も、父の主治医だった)。この人々が、
いかなる病を完治したかといえば、ほとんど功績がないのである。
 母は肋膜癌、父は胃潰瘍で、それぞれ長期にわたって多額の医療費を
支払ったが、一度も快方に向かうことなく最初の病名のまま死んだ。
 
 ホーム・ドクターが亡くなったとき、与太郎は父と顔見合わせて,
「あの先生は、なにひとつ治さなんだな」と苦笑したのを思いだす。
 田中 愛三(同志社高校1956年度卒=正伸の父)
 京都市東山区三条大橋東入大橋町(吉二一〇五)
 
 母も、気軽に往診してくれる田中先生の物腰から病状を推して、緊急
を要する場合はイソダはん、やや重篤とみればハヤシ先生、というふう
に、つぎの医師を決めていたフシがある。
 
 生来病弱だった与太郎の、七才から九才にかけての小児結核は、ヤミ
のペニシリンで即効する。
 ペニシリンを待つ間、ドイツ語のテキストを見ながら“気胸手術”を
敢行した青年医師が、八才の少年の胸に向って注射針を突きたてた姿は、
いまも彫像のように思いだされる。
 この中西医師の恩師にあたる老先生(当時54歳)にも、ときどき診て
もらうことになった。
 
 ハヤシ先生は、診察のたびに、いつも同じことを言った。
 たぶんカルテに「作文のお世辞を言うこと」と書いてあったのだろう。
「ボクの作文を読みたいもんだネ」「センセ、お上手ばっかり」
 めかしこんだ母が、いつも嬉しそうに答えていた。
 
 林 良材博士の名は、最近ようやくホームページで発見できた。
 著書に《還暦の町医 1952》《町医三十年 1954-1955 創元社》《誤診
百態 1955》《わが師を語る(正・続)1970-1971》など。
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20101025【林 良材 文庫】
 
■2002/11/15 (金) 町医・林 良材の記
 
── 昭和24年には、医薬分業問題がおこった。1978 中東医報 第5号
              (ママ)
 7月来日したアメリカ薬剤師協会使節団はGHQに強制医薬分業を含む報
告書を出し,サムス准将は9月13日その分業勧告書を厚生省に渡した。
これより日本医師会の医薬分業に対する長い苦しい戦いがはじまった。
京都府医師会には医薬分業対策委員会が作られ,中京東部医師会の林良
材はその委員長となり,その「任意医薬分業論」はサムスに府医の陳情
書として送られた。これによって林良材は日本一の強制分業反対の論客
と折り紙をつけられ,昭和25年5月国会の公聴会に・昭和29年6月医薬朗
係審議会委員として医師会代表として全国医師の与望を担って大活経し
た。林良材は毎週水曜日午後,39回東上している。繁忙な診療を犠牲に
しての東上は大変な辛苦であったと思われる。
http://www.naka-higashi.kyoto.med.or.jp/activity.htm
 
(20020604-1115)
 
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2002年11月14日(木) エンピツ日記《与太郎日記》◆=リンクしない。
 
── 阿波 与太郎 様
 
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