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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 門庭再訪 〜 本宮 啓 先生との対話 〜
汽車で広島に到着した。市内の入口あたりで、とんでもない事態である
ことがわかった。焼死体の中で泣き叫ぶ生存者に「助けてくれ」といわ
れても、どうにもならない人数なんだ。そのまま街中に進んでいくと、
もっとひどい光景がつづいている。現地兵もおなじ状況だった。
── 救援隊の二次被爆もたいへんだったそうですね。
本宮 ぼくは、三ヵ月あまり下痢と腹痛ですんだが、仲間の多くは被爆
手帳を申請して後遺症に苦しんだらしい。もちろん亡くなった者もいる。
── 人類史上だれも見たことのない地獄絵を直視されたんですね。
本宮 たとえば、むこうに和服の娘さんが歩いている。きれいな人やな
と思ってながめていたら、ふとこちらをふりむいた。それまで左半面し
か見えなかった顔の、右半面が見えた。その半分が生々しいケロイド状
で、ひとつの顔が二つに塗りわけられたようになっている。被爆の直後
だから、それはひどいものだった。
── ぼくは、先生の自己紹介をかねた最初の授業をおぼえています。
「先生は長島愛生園にも慰問に行った。でもこの通りピンピンしてる」
当時まだ、ライ患者収容所と称されていた施設のことは、中学生でも
知っていましたが、このとき先生は、宗教的な訓話をされたのではない。
しかし、現実を直視して、たじろがない態度が重要なのだと感じました。
本宮 うーん、あれは同響の演奏旅行やったかな。
(三年間にわたって、もっとも多く先生に接していた中学生は、先生の
怒った顔を見たことがない。いかなる時もクールだった先生の原体験を、
いまはじめて聴いた)
── 先生は、いつでも面白そうに話を聞いてくれる。聞きおわると、
かならず一言コメントしてくれる。しかし注意しないと皮肉たっぷりの
揶揄的表現を聞きのがす。
── 《Day was Day 20001231 Awa Library》P048《サンピツ 〜 同中三筆 〜》
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被爆地での二次被害については、父子猫(江戸家 猫八の訃報)参照。
チクルス 〜 超絶!課外授業 〜
── 最初の授業で、もうひとつ印象的だったのは、戦争から帰ると、
まっさきに押入れからヴァイオリンを取り出して、弾いてみたら、キコ
キコ音が出たという。
本宮 これでまたオーケストラができる。大学は卒業してしまったが、
なんとか同響を再建したい。とりあえず、同志社本部にアキがあったの
で勤めることになり、しばらく《同志社タイムズ》を編集していた。
── ぼくらは、大学の新聞部出身かと思ってましたが。するとまだ、
先生ではなかったんですね。
本宮 そう、香里で同志社中学と高校を開校することになって、本部の
松永先生が校長となり、中学の宗教活動と音楽指導の西邨辰三郎先生も
出向されるので、後ガマに誰か居ないかと見わたすと、ぴったりの男が
居たわけで、いそいで文部省に教員の資格申請書を出すと、すぐに免状
をくれた。
── ここならもっと、オーケストラができる。
本宮 1948年、同響を再建して、ジュニア・シンフォニーも発足させた。
生徒会もこのころ自治会憲章をつくった。
── ぼくが入学したのは1952年度だから、メンバーが一巡したころ
でしたね。三年生の大西紹夫(ツグオ、と読む)君などが《クシコスの
郵便馬車》を弾いている。はじめて弦楽合奏をまぢかに聴いて、とても
魅力的だと思ったが、まさか自分にできるとは想像できなかった。
本宮 はじめのうちは、すでにヴァイオリンを習った子供ばかり集めて
やっていたが、三年ごとにメンバーが卒業していくので、うまくなった
ころには居なくなる。また、最初から初心者に教えても、すこし弾ける
ようになると卒業する。これではつまらないから、初心者が三年かかる
ところを半年くらいに短縮して、速成の手ほどきをやってみた。これが
意外にも効果があって、一年そこそこで立派に弾ける生徒もあらわれた。
── ぼくらの高校シンフォニエッタなど、それはヒドイもんでした。
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11月23日(金)
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