ID:87518
与太郎文庫
by 与太郎
[1061790hit]
■ 高倉健の喜怒哀楽
けである。そして名だたるスターがああいう状況になると、ああいう表
情をするのか、ということか判ると、それはそれで充足感に思えてくる。
ベッドシーンか参考になるのは、その程度のことかもしれない。
筆者の《映像飛評》は、ひろく映画の楽しみかた、あるいは映画の味
方という立場から、映画のエクボを発見するのが目的である。一本調子
でケナすくらいなら、むしろ黙殺して、筆を投げるべきだと思うし、ア
バタはアバタ、エクボはエクボとして分析するのが本筋であろう。
スターの条件 彼は大根役者でなければならない
ラストシーンの表情が秀逸、という評には評者のオカボレが感じられ
る。高倉健の演技力が向上したわけでなく、そもそも演技たらしめるの
は監督の仕事なのである。
ラストシーンの表情が、もっとも印象的であるためにこそ、多くの映
画は作られている。たとえば《大いなる西部》におけるグレゴリー・ペッ
クとか、思いだせばキリがなかろう。
ジョン・ウェインやゲイリー・クーパーなど、高倉健に至るスターの
共通点は、いずれも演技が下手なことである。脇役は巧ければ巧いほど
良いが、主役は、概してボサッと立つだけで絵になるような状況設定が、
ある種の傑作の条件である。
彼らの表情はせいぜい三種顆くらいで、それぞれがアップになるまで
には、無数の伏線と設定が、計算されている。主として脚本家の仕事で、
監督はその必然性をうまく配分していって見せ場から見せ場へつなぐわ
けである。
前後の事情が判らずに、もし彼が過去にどんな役柄を演じたスターで
あるか知らない人が見たら、彼が何を考えているのか、察することは不
可能である。
映画は、もともと興業であるために、スターを心要とする点が基調な
のである。彼が、かくも複雑な問題に直面し、内心の苦しみや喜びを、
みごとに表情にあらわしている、と思うのは観客の想像力によるもので
ある。高倉健のファンでなくとも、彼ほどの大スターが、頭の中カラッ
ポで、こんな表情をしてるわけがない(彼の頭が、いつもカラッポだと
いうわけではなく、その表情を命じられて、無心にできるのが大スター
の素質なのである)と勝手にあれこれ察するわけである。
その表情が三種顆、多くて喜怒哀楽の四種類あれば、立派に主役はつ
とまるはずである。それに見あう顔つきや体格が必要なのは当然で、中
には眉のしかめかたを四段階にして使いわけるだけのスター(天知茂)
もいる。
高倉健の四つの表情 古典音楽が映画音楽になる条件
高倉健に四つの表情があるとすれば、かのラストシーンは、喜怒哀楽
のいずれか。もちろん哀である。そして彼のもっとも人気ある表情は怒
である。喜と楽については、一編のうちごくわずかに示されるだけであ
る。ほとんどの場合、彼においては喜と楽の区別はつけがたい。
そこで、エクボ発見法によれば、高倉健の場合、喜びの表情は主とし
て三枚目ふうの演技と連なっている。彼の三枚目ぶりは、なかなか得が
たい資質であって《冬の華》では、つぎのようなシーンである。
…… 名曲喫茶で、高倉健が意を決して、ウェイトレスに注文する「ア
のぅ、チャイコフスキーの、ピアノコンチェルトを」するとウェイトレ
スが笑って「ただいま、かかっている曲が、そうでございます」……
こういう時の、彼の表情が、いかに秀れていても、くりかえし何度も
画面に出すわけにはいかない。たった一度だからこそ光って見えるので
ある。
ついでにいうと、チャイコフスキーのピアノコンチェルトは三曲あっ
て、この映画では第一番・変ロ短調をアシュケナージのレコードから借
用している。どっちでもいいじゃないか、という人もいるわけで、たし
かに第二番や第三番は、大作曲家の作品のわりに演奏される機会は、ほ
とんど皆無である。しかし映画には、音楽監督もいるのだし、名曲喫茶
で曲名標示板に書く場合には、たいがい第一番とか、変ロ短調を併記す
る習慣があるから、意図的な省略でなく、単なる不勉強と思われる。
[5]続きを読む
10月09日(月)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る