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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 弓弦十話 (その1)
野太い男声で、女々しく歌いあげるところがミソであるらしい。
 先の例と逆で、1オクターブ上げた例は、かなりあった。
 交響曲から《枯葉》まで、アメリカ随一の器用な指揮者、コステラネ
ッツの演奏した組曲は、当時最盛期のマントヴァーニ・スタイルによる、
ヴァイオリン群の華麗なさざめきに代えていた。全曲、英語詩の朗読を
付してそれなりに雰囲気をもりあげていた。
 原曲以外の音域で演奏してはいけない、という法はないのである。
 
 ■ 水族館
 
 盲目の作曲家、宮城道雄 (1894〜1956) の回想に、こんなエピソード
があった。筝匠があるとき、楽屋で琴を奏でていると、誰かがじっと聴
きいっている気配がする。やがて、それがチェロのピアティゴルスキー
であると察しられたが、彼は何かを探しはじめて様子である。何を探し
ているのですか、とたずねれば、ここにチェロは置いていないか、とい
う。あなたのような大家に、弾いていただけるような楽器は、どのみち
ございません、と師が恐縮するうちに、彼はどこからか、古いコントラ
バスを代りに見つけだしてきた。
 そして、筝匠をうながすや、悠然と《春の海》を弾きはじめたという。
 《春の海》は、もともと昭和7年に来日した女流ヴァイオリニスト、
ルネ・シュメーによって、ヴァイオリン用に編曲された尺八と筝の二重
奏曲である。
 これをコントラバスで弾くには、かりに3オクターブ下げても、相当
なハイ・ポジションと、困難な運弓が要求される。いわば東西両巨匠に
よる、まことに珍らしい、かつ崇高な楽興の時が、その場に展開された
こと、と思われる。
 実はこの話、何かで読んだ記憶だけが頼りで、出典を明らかにできな
いのが残念だが、宮城師には《雨の念仏》その他の随筆集もあるとかで、
あるいはこれに収められているかもしれない。
 因みに、ピアティゴルスキーの来日は、昭和11年と31年の二度にわた
っており、おそらく、最初の来日の際のエピソードではないかと想像さ
れる。ともに若き日の巨匠、として躍如たる面目がうかがえる。
 そして、31年といえば、筝匠の没年、かの悲劇的な事故、列車からの
転落の年に当っている。
 
 ■ 耳の長い登場人物
 
 めったに見かけなくなったが、演奏会場で楽譜をひろげる人たちがい
る。
 バリトンの、ゲルハルト・ヒュッシュが来日した際には、すでにかな
りの老眼であったにもかかわらず、歌詞のノートを手にしていながら、
やっぱり歌の文句をまちがえたそうである。楽譜と首っぴきで聴いてい
た、ある音楽学校の学生が、あとで先生に、ミス・プリントがあります、
と訴えたそうである。
 オーケストラの場合には、この連中は当然フル・スコアを追うのだろ
うけれども、コンチェルトの場合には、どうしても欠落した部分に出く
わすこともある。
 カデンツァの部分がそれである。少数の例を除いて、本来は独奏者が、
即興風に奏するために、フェルマータが記されているだけである。
 だが今日では、その独奏者が、ほんとうに自身の感興にのって、即興
演奏をさしはさむ、ということはなくなってしまった。
 ベートーヴェンの《ヴァイオリン協奏曲》を例にとれば、ヨアヒムと
か、クライスラー、稀にはアウアーなど、往年の大ヴァイオリニストの
作曲(!)したものを、忠実に再現するのが常である。つまりクライス
ラー (1875〜1962) あたりまでのヴィルティオーゾ健在期を最後に、演
奏家の即興的かかわりは失われてしまった、のではないか。
 もうすこし昔、すなわちベートーヴェンの時代では、コンサートのプ
ログラムに、即興演奏そのものが、ひとつの曲目として売りものになっ
ていたし、たとえば《ピアノ協奏曲第3番》の初演のときなど、作曲家
みずからの独奏用楽譜は、ほとんど真白に近い、メモ程度のものであっ
た、と伝えられている。
 さらにその昔、フルートの名手を自任する、かのフリードリッヒ大王
が、延々と続くカデンツァを、得々と奏している図も思い出される。楽

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04月01日(木)
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