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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 一聴一席D和洋折衷の館    オーティス・ケーリ教授ご一家をたずねて
はセンスがないらしいね(笑) (1969・8・15/アーモスト館邸にて)
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  禅宗・相国寺門前の教授一家は、 日本バプテスト病院の女医である
アリス夫人はじめ滞米あるいは帰米中の長女ベス嬢、この日同席された
帰日あるいは滞日中の次女アン嬢19才、神戸カナディアン・スクール寮
生の長男フランク君16才と三女エレン嬢14才の6人家族である。明快な
回答に恵まれながらそのすべてを紹介できないのは、ききての不徳は勿
論一聴一席なる所以である。
 
── ケーリ Cary, Otis 1921.10.20 〜
 日本文化研究家。北海道小樽市生まれ。父は宣教師。同志社大教授だ
った祖父からかぞえると3代にわたって日本に住んだアメリカ人の家系
に属する。/42年従軍してアリューシャン、サイパンの日本人捕虜収容
所長。この間にアメリカ軍学徒兵、日本語学習仲間のおたがいにあてた
手紙を日英両言語で出版した。/(鶴見 俊輔)
 
 菅野 静子 (スガノ・シズコ) 1926.4.1 〜
 サイパン島玉砕をまぬがれた陸軍看護婦。山形県の農家の生まれ。
1927(昭和2)年家族とともにテニヤン島に渡った。40年の開戦後サイパ
ン島に移り、陸軍特別志願看護婦となる。44年6月15日米軍の上陸によ
って日本軍2万7000人全員が玉砕、2万5000人の在留邦人の大半が自ら
生命を断つなかで、手榴弾で自決をはかったが、意識不明のまま黒人兵 
に助けられた。米軍キャンプで、かつて日本に学び日本語のできるある
将校が、助けようとしても自ら死を選んでいく日本人を理解できないと
涙を流し、菅野に生きることをすすめた。45年4月軍事裁判で通訳にあ
たった菅野伊佐美と結婚、46年帰国。59年に、当時の記録を『サイパン
島の最期』(出版協同社)にまとめて刊行。同志社大学教授をつとめた
オーティス・ケーリは、菅野に生きることをすすめた将校は多分自分で
あろう、そうした記憶があるといっている。
── 《朝日人物事典 19901210 朝日新聞社》P629,852
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 Cary,Otis 宣教師・教会史 18510420 America 19320723 81 /同志社大学教授(祖父)
/神戸女学院理事長 1
 Cary,Frank エール大教授 1888・・・・ America 1973・・・・ 85 /“Cary Collection”(父)
 Cary,Otis    日本研究 19211020 小樽 米 20060414 84 /同志社大学教授
/アーモスト館長
 鶴見 俊輔   哲学・評論 19220625 東京         /同志社大学教授
/裕輔の長男/和子の弟/1965ベ平連・結成《思想の科学・創刊》
♀菅野 静子  伊佐美の妻  19260401 山形 /同志社大学教授/元陸軍特別志願看護婦
♀寺井 美奈子 生活文化評論 19370307 東京 /

 
 ケーリ家は、Otice,Frank,Otice,Frank と交互に四代つづいている。
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── 日米交流に尽力:オーテス・ケーリ氏(同志社大名誉教授、米国
文化史)現地時間の14日午後1時(日本時間15日午前5時)ごろ、
肺炎のため米カリフォルニア州オークランドの介護施設で死去、84歳。
北海道小樽市出身。米国でお別れ会をした後、日本でも行われる予定だ
が、日取りなどは未定。
 日本在住の宣教師の長男。同志社大創始者の新島 襄 と親交のあった
祖父が、新島と共に学んだ米・アーモスト大在学中に日米が開戦。ハワ
イの日本人捕虜収容所長を務めた。
 除隊後の47年、同志社大への派遣教授としてあらためて来日。半世
紀を京都で暮らし、退職後「日本の老人ホームは高すぎる」と米国に。
 日米交流に力を尽くし、太平洋戦争史の研究者として知られる。
── 《訃報 20060416 共同通信》
 
 ケーリ文庫 約1,100冊
1974(昭和49)年3月11日、本学元教授オーティス・ケーリ氏により寄贈
されたもの。氏の祖父オーティス・ケーリ博士、父フランク・ケーリ博
士両氏により収集された、主として外国人の日本研究とキリスト教伝道

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08月15日(金)
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