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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 《点展・第一号》
ちから見るとグロテスクなだけだが、当時、男たちはぬぎすてられたそ
のくつを見ると本能的な欲情をそそられたそうだ。という訳で、結論と
して私がいいたいことはこうである。美しい女体に昂奮するのは自然の
情だが、現在の女性美というのはアメリカのマスコミの人工製である。
私たちが、それを自然の情でそれを肯定するとしたら、その自然の情た
るや、纏足用の靴に対してと同様「人工的本能」だろうということだ。
それこそアメリカ資本主義製精神への基本的敗北といえるかも知れない。
人工牝におどらされている種つけ牡牛と同じ精神構造のような気がする。
 
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 日常について             阿波 雅敏
 
 たとえば、カレーライスを注文したのに、カレーうどんがきたら、あ
なたはどうしますか。怒って食べてしまうか、もう一度カレーライスを
請求するか、一生カレーライスは注文すまいと決心するか、草いろいろ
各々花の手がらかな、というわけです。
 
 小学生のころ、私はボートが好きでした。貸ボートというのは、下手
に夢中になると、あやうくオールの止め金がはずれそうになります。あ
る日とうとう水中に落してしまったので、おじさんにわけを話して、弁
償しますからというと、150円で勘弁してくれました。幼い私がすご
すご帰りかけると、そのおじさんは、自分ですいすいボートを出して、
止め金の沈んでいるあたりで、くるりとシャツを脱ぐや、どぶんと飛び
込んだものでした。深そうな処だったので、あるいは今でも沈んだまま
かもしれません。
 
 最近、うっかりと財布を忘れました。さる郊外で電話を借りた時だと
考えて、翌日その店を訪ねると、気がつきませなんだな、とおばさんは
いうのです。ではどうも、とあきらめていたら、ちょうど一週間目に警
察からの電話で、拾得者があった旨の連絡です。首をかしげて書類をみ
ると、拾得者は例のおばさんです。
 
 日常のほとんどの出来事は、遅かれ早かれこうした雰囲気で解決し、
連続している感があります。怒った人も、辛抱した人も、やがては、あ
の時はあんなものだったなと思うだろうし、その範囲では、怒っても我
慢してみても、日常を否定することはできないようです。
 
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 大石内蔵助の役百万円         竹内 康
 
 あなたはいやしくも放送という仕事に携わる者である。ということは
つまり、文字という表現の手段に限界を感じ、映像・音声の可能性を信
じてその仕事を選んだはずである。それが今更おめおめと筆を取るとは
……
 私が一文を書くに当っては、このような前提から出発しなくてはなら
ない。でなければ自己を裏切ることになろう。だがまたこの前提は私に
何を書くべきかを示している。つまり文字文化・映像文化そのどちらで
もない新しい文化論を書くことである。
 しかし「文化論」と正面切って論ずるのは止めて、ここではその具体
的なアイデアを提供するに留めておこう。
 ──先ず斜陽産業といわれる映画会社に掛け合って撮影所を借り受け
よう。そうしてセットや俳優や小道具等は一切残して、カメラだけを追
放しよう。次に新聞に広告を出そう。曰く「赤穂浪士の大石内蔵助の役
百万円、シェクスピアのハムレットの役五十万円」と。
 今まで我々に与えられて来た「芸術」というものは、すべて見るもの、
聞くもの、読むものであった。つまり鑑賞するものに過ぎなかった。し
かし私がここに提唱する「芸術」は、その中に生きる芸術である。
 つまり、今まで暗い映画館のイスで受け手として映画を見ていた観客
は、今やその主役として、再現された元禄時代に大石内蔵助として生き
るのである。(勿論彼が台本以外のことをした時は罰金が課せられる)
彼は「赤穂浪士」を読むのでも、見るのでもなく、実際に追体験するの
である。彼はこの現実の世界に生きると共に、「虚構の世界」につまり

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12月10日(木)
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