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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 風にそよぐ草 〜 野村家の人々 〜
南海時代 1038試合 512勝 471敗55分 勝率.521
ヤクルト 1187試合 628勝 552敗7 分 勝率.532 リーグ優勝5回、日本一3回。
阪神時代 411試合 169勝 238敗4 分 勝率.415
監督通算 2636試合 1309勝1261敗66分 勝率.509
◆
── 契約金ゼロのテスト生として1954年に南海ホークスに入団。1年
目に戦力外通告を受け解雇されかけるも懇願して残留。3年目、鶴岡一
人監督からハワイ春季キャンプに抜擢され活躍。以降正捕手に定着。
── 1977年、シーズン終了まで2試合を残し、当時はまだ愛人関係に
あった沙知代のチーム・選手への口出し、度重なる公私混同を理由に解
任される(野村本人は2005年 6月に日本経済新聞に連載された「私の履
歴書」で、鶴岡の差し金によるもの、という趣旨の文章を書いている)。
野村の鶴岡への恨みは深く、鶴岡の葬儀にも試合があったとはいえ欠
席し、花も出さなかった。(鶴岡が評論家を務めたスポーツニッポン
(大阪本社)との確執は阪神タイガース監督時代に再燃している)
南海ホークス本拠地であった、大阪球場跡地に建設されたなんばパー
クスの南海ホークスのコーナーでは彼の存在は無視され、年表にある歴
代監督の紹介では、野村の代わりに腹心のドン・ブレイザーコーチのみ
が紹介されている。なんばパークス側は野村の許可が下りなかったため
としているが、チームの主力で監督を務めた人物を完全に無視するのは
明らかに異常であり、両者の確執の深さを物語っている。
http://www.dict-keyword.com/30/14107.html
── 《野村 克也、球歴と寸評》
◆ 野生の女“サッチー”
19320326(00)伊東 芳枝(のちのサッチー)福島県白河に生れる。
1933‥‥(01)/自称、東京出身。コロンビア大学精神心理学部卒業。[B]
1934‥‥(02)/旧姓=伊東 芳枝→ヨシエ・エンゲル→通称「三千代」
19350629(03)野村 克也、京都府竹野郡網野町(現・京丹後市)に生れる。
1936‥‥(04)
1937‥‥(05)
1938‥‥(06)
1939‥‥(07)
1940‥‥(08)
1941‥‥(09)
1942‥‥(10)
1943‥‥(11)
1944‥‥(12)
1945‥‥(13)
1946‥‥(14)
1947‥‥(15)
1948‥‥(16)
1949‥‥(17)
1950‥‥(18)
1951‥‥(19)
1952‥‥(20)
1953‥‥(21)
1954‥‥(22)
1955‥‥(23)
1956‥‥(24)
19570517(25)伊東 克明(団・野村克晃→ダン・野村)アルビンの長男、東京に生る。
1958‥‥(26)/座間キャンプ内高校を経てカリフォルニア工芸大学進学(2年中退)
19590227(27)伊東 克彦(ケニー・野村)沙知代&アルビンとの次男、神奈川に生る。
1960‥‥(28)/小学校から高校まで世田谷のアメリカンスクール「セントメリーズ」
1961‥‥(29)/カリフォルニア工芸大学入学(中退)。
1962‥‥(30)/現在は日本とアメリカでスポーツアドバイザーとして活躍。
1963‥‥(31)
1964‥‥(32)
1965‥‥(33)
1966‥‥(34)
1967‥‥(35)
1968‥‥(36)
1969‥‥(37)
1970‥‥(38)
1971‥‥(39)
1972‥‥(40)飯高 有紀子(野村克則の妻)東京に生れる。
19730723(41)野村 克則(克也&沙知代の息子“カツノリ”)東京に生れる。
1974‥‥(42)戸籍名を「伊東 沙知代」に改名。
1975‥‥(43)
1976‥‥(44)アルビン George エンゲルと離婚(1957入籍)
1977‥‥(45)
1978‥‥(46)野村 克也と再婚「野村 沙知代」となる。
1978‥‥(46)伊東 克明、ヤクルト入団(テスト生)。
1979‥‥(47)アルビン George エンゲル(5.)ハワイで自殺
1979‥‥(47)野村 克晃(伊東 克明)1979-1981ヤクルト2軍内野手。
1979‥‥(47)伊東 克彦(ケニー・野村)1979〜1983広島、日本ハムで2軍捕手。
1980‥‥(48)
1981‥‥(49)
1982‥‥(50)
1983‥‥(51)
1984‥‥(52)
19850810(53)《きのう雨降り、今日は曇り、あした晴れるか 19850810 》第4回潮賞
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06月29日(土)
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