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与太郎文庫
by 与太郎
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■ わたしの書誌目録 〜 My Bibliography 〜
…… ある日の午前に日比谷近く帝国ホテルの窓下を通った物売りの呼
び声が、丁度偶然そのときそこに泊り合わせていた楽聖クライスラーの
作曲のテーマになったという話があったようである。自分の怪しう物狂
おしいこの一篇の放言がもしやそれと似たような役に・・・
https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/43257_17197.html
── 寺田 寅彦《徒然草の鑑賞 193401‥ 文学 全集第七巻 19970605 岩波書店》
〔book〕 0517
── クライスラー/新田 潤・訳《塹壕の四週間 119230101 噴泉堂 1937‥‥ 竹村書房》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/B0093T7K4S
(20190911)(20250517)
── クライスラー/伊藤 氏貴・訳《塹壕の四週間 あるヴァイオリニストの従軍記 20210805 鳥影社》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4862659004
Four weeks in the Trenches, Houghton Mifflin Harcourt 1915 Digital Archive
Terada, Torahiko 18781128 東京 19351231 57 /筆名=吉村 冬彦
Beethoven, Ludwig van 17701216 Duitch 18270326 56 /“楽聖”
Kreisler, Fritz 18750202 Wien America 19620129 88 /1950 引退
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…… クライスラーは演奏旅行先にある歴史ある図書館などで埋もれて
いた作品を発掘し、それを演奏会にかけることを楽しみにしていた。そ
の埋もれた作品をそのまま演奏するのみならず、作品の旋律のごく一部
を自作に取り入れ、その自作をしばしば「過去の(忘れられた)作曲家
の作品を『再発見』した」と称して演奏・出版した。ある時、その演奏
を聴いた評論家が「作品はすばらしいが、演奏は大したことがない」と
斬って捨てた。それを聞いたクライスラーは激怒し(クライスラーは、
評論家の批判に対しては滅多に怒らなかったようであるが、この時は逆
鱗に触れる部分があったらしい)、抗議の手紙を評論家に送った。
1935年頃、その手紙を入手した『ニューヨーク・タイムズ』の音楽担
当記者が、「編曲」と銘打っているのに原曲が世に出てこないことを疑
問に思い、当時ウィーンに戻っていたクライスラーにそのことを尋ねて
証拠品の提出を求めた。すると、クライスラーはあっさりと「○×作曲
・クライスラー編曲」とある曲はほぼ自作であることを認めたばかりで
なく、どの曲のどの部分をどう・どれだけ引用し、どの部分が自分の作
曲であるか事細かく答えた。そして、事に及んだ理由として「自作ばか
りじゃ聴衆が飽きるし、また自分の名前が冠せられた作品だと他のヴァ
イオリニストが演奏しにくいだろう? だから、他人の名前を借りたのさ」
と答えた。
この爆弾発言は1935年2月8日の『ニューヨーク・タイムズ』で公表さ
れ[1]、一大センセーションを巻き起こした。「クライスラーは、騙す
気はなかったとしても30数年もの間音楽業界と聴衆を小馬鹿にしていた」
と当時はそのことを問題視する向きもあったようであるが、クライスラー
によってフランス・バロック音楽やヴィヴァルディの再発見のきっかけ
が作られた事実もまた否めない。「他のヴァイオリニストが演奏しにく
い」点に関しては、完全にクライスラーの杞憂に終わり、その後は世界
のヴァイオリニストの定番レパートリーとなっている。なお、クライス
ラーの「編曲」のうち、問題になったのはあくまでバロック期などの作
品(を騙った作品)であり、古典派・ロマン派以降のものは純粋な編曲
である。
他にはオーマンディが、「ラフマニノフの《交響的舞曲》のオーケス
トラ・ヴァージョンで、弦楽器の運弓(ボウイング)指定をクライスラー
が行ったことをラフマニノフ自身に自慢された」との証言を残している。
来日
クライスラーはただ一度、1923年5月に来日している。日本では以前
よりビクターレコードの赤盤によって人気が沸騰しており、クライスラー
より少し前に来日していたウィリー・ブルメスター(格式ではクライス
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05月17日(土)
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