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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 啓蒙専制君主 〜 enlightened despotism 〜
れていたため、この逃亡計画も自分を陥れる罠だと考えてフリードリヒ
を処刑しようとまでしたという。手引きをしたカイト少尉はイギリスに
逃亡したが、カッテ少尉は捕らえられて、見せしめのためフリードリヒ
の目の前で処刑された。フリードリヒが「カッテ、私を許してくれ!」
と窓から叫ぶとカッテは「私は殿下のために喜んで死にます」と従容と
して斬首の刑を受けたという。フリードリヒは窓からその光景を見るよ
う強制されたが、正視できぬまま失神した。カッテの遺書には「私は国
王陛下をお怨み申し上げません。殿下は今までどおり父上と母上を敬い、
一刻も早く和解なさいますように」と書かれていた。
 
 ハプスブルク家の皇帝カール6世が調停に乗り出して、フリードリヒ
・ヴィルヘルム1世父子の確執の修復をして、フリードリヒは廃嫡を免
れた[3]。フリードリヒは数週間後、父王にむけて手紙を書き、恭順の
意を表したため、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はフリードリヒを釈
放して、近くの王領地の管理に当たらせることにした。
 
 妃:エリーザベト・クリスティーネ
(画)アントワーヌ・ペーヌ
1733年6月12日には父の命令に従って、オーストリアの元帥であったブ
ラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェルディナント・ア
ルブレヒト2世の娘エリーザベト・クリスティーネと結婚する。ハプス
ブルク家のマリア・テレジアとの婚約の検討もあったが、フリードリヒ
がカトリックに改宗する見込みがないために、取り止めになった[* 1]。
 
 当時17歳のエリーザベト・クリスティーネは容姿の美しい、また善良
で信仰心の篤い少女であった。彼女は夫に好かれようとして、様々な教
養を身につけるべく努力したが、フリードリヒの気を惹くことはなかっ
た。夫婦としての生活もなく、後に七年戦争が終結した時、数年ぶりに
会った彼女に対してフリードリヒが言ったのは「マダムは少しお太りに
なったようだ」の一言だけだったといわれる。そのため2人の間には子
供がなく、フリードリヒ2世の後を継いだのは王弟アウグスト・ヴィル
ヘルムと妃の妹ルイーゼ・アマーリエの子、つまり王と王妃の双方にとっ
て甥にあたるフリードリヒ・ヴィルヘルムだった。しかし、それでも彼
女は夫を尊敬し続け、フリードリヒとの文通は続いていたという。
 
 赴任先のルピーン近郊に造営したラインスベルク宮でフリードリヒは、
気の進まない結婚の代償として得た自由を楽しんだ。父王の意に沿って
軍務をこなすかたわら、趣味のあう友人たちを集めて余暇にはげむ優雅
な時間を過ごし、また著作も試みている。多くの書簡集のほか、フリー
ドリヒの最初の著書として『反マキャヴェリ論』が知られている。反マ
キャヴェリ論はマキャヴェッリの提示した権謀術数を肯定するルネサン
ス的な君主像に異を唱え、君主こそ道徳においても国民の模範たるべし
と主張する啓蒙主義的な道徳主義の書であった。この本は後に、文通相
手だったヴォルテールの手を経てオランダで匿名で出版され、数か国語
に翻訳されている。しかし、即位後フリードリヒ2世がオーストリア継
承戦争で見せた野心は、この本の主旨と正反対のものであり、ヴォルテー
ルにも非難されることになる。
 
 即位後
 啓蒙主義的改革
 
 1740年代、甲冑をまとったフリードリヒ
 1740年5月31日フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は崩御し、フリードリ
ヒはフリードリヒ2世として即位した。即位後ただちにフリードリヒ2世
は啓蒙主義的な改革を活発に始め、拷問の廃止、貧民への種籾貸与、宗
教寛容令、オペラ劇場の建設、検閲の廃止などが実行された。フランス
語とドイツ語の2種類の新聞が発刊され、先王フリードリヒ・ヴィルヘ
ルム1世のもとで廃止同然になっていたアカデミーも復興し、オイラー
をはじめ著名な学者たちをベルリンに集めたため、ベルリンには自由な
空気が満ち「北方のアテネ」と称されるようになった。
 
 自由を実現する一方、フリードリヒ2世は父から受け継いだ8万の常備

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01月24日(日)
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