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与太郎文庫
by 与太郎
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■ コンクラーヴェ議長から教皇へ
 トラウンシュタインに戻った直後、連合国軍捕虜キャンプに6週間拘
留された。6月には本国に送還され、兄弟(ゲオルグ)とともにカトリ
ック神学校に入った。1951年6月29日、二人はミュンヘンのファウルハ
ーバー枢機卿によって僧職を授けられた。論文(1953)は聖アウグステ
ィヌスについてであり、第2論文は聖ボナヴェントゥラについてであっ
た。1957年に神学博士号を得、1958年にフライジング大学教授となった。
 
 ラツィンガーは1959年から1963年までボン大学教授をつとめ、それか
らミュンスター大学に移った。1966年、チュービンゲン大学の教義神学
部長となった。ここでハンス・キュングの同僚であった。しかし、チュ
ービンゲンの自由主義的な気風と1960年代の学生運動のマルクス主義傾
倒のなかで、彼は伝統主義的な見解を確立した。ラツィンガーは第2バ
チカン公会議においては自由主義的な神学顧問であったが、1968年以後、
学生運動の非宗教主義(世俗主義)に対抗するようになってからは保守
的になった。1969年にバイエルンに戻り、レーゲンスブルク大学に移っ
た。
 
 第2バチカン公会議(1962〜1965)にラツィンガーは、ドイツのケル
ンのヨーゼフ・フリンクス枢機卿のための専門官(教義的専門家の長)
として参加した。
 
 コムニオとその後の経歴
 1972年、ラツィンガーは、ハンス・ウルス・フォン・バルタザール
(Hans Urs von Balthasar)、アンリ・ド・リュバック(Henri de
Lubac)らとともに神学雑誌コムニオ(Communio、http://www.commuio-icr.com/)
を創刊した。現在17種類の版(ドイツ語、英語、スペイン語その他多数)
で発行されているコムニオは、カトリック考察における最も重要な雑誌
の一つとなっている。
 
 1977年3月、ラツィンガーはミュンヘンとフライジングの大司教に任
命され、その6月の枢機卿会議で教皇パウロ6世によって枢機卿に任命
された。2005年のコンクラーヴェでは、パウロ6世によって任命された
中で残っているわずか14人の枢機卿の一人であって、その中でも80歳未
満である3人のうちの一人であり、このためにコンクラーヴェに参加す
る資格を有したのである。
 
 1981年11月25日、教皇ヨハネ・パウロ2世はラツィンガーを教理省長
官に任命した。1982年初頭にミュンヘン大司教管区を辞職し、1993年
にはヴェレトリ・セグニ枢機卿となり、1998年に枢機卿会副会長、2002
年に会長に選ばれた。教理省では、ラツィンガーは産児制限や異宗教間
対話については伝統的な見解をとってきた。教理庁長官として、ラツィ
ンガーは1986年、司教に対して、同性愛を「本質的な道徳的悪に向かう
定めの性癖」で「客観的な障害」であると定義づける書簡を書いた。
 
 教皇選挙
 2005年1月2日、タイム誌は匿名のバチカン関係者の言葉として、ヨハ
ネ・パウロ2世が亡くなるか教皇を続けられないほどの重病になった場
合の後継者としてのトップランナーはラツィンガーであると掲載した。
ヨハネ・パウロ2世の死に際して「ファイナンシャルタイムズ」はラツ
ィンガーが教皇になるオッズを7-1(8倍)という本命にしたが、教会の
進歩派のライバルにも近い数字を与えていた。
 
 ピアース・ポール・リードは2005年3月5日、スペクテイター紙にこう
書いた。
 
 正統カトリックの教えを果敢にも振興していることで、全世界の枢機
卿たちからの敬意を集めていることはほぼ間違いない。明らかに神聖で
あり、高い知性を有し、はっきりと何が問題かを見抜く。まさに、この
発展する世界のなかで多くのヨーロッパの司教たちの性癖が砂に頭を隠
さねばならないようなものになってしまっているというカトリックの堕
落を非難する人たちにとっても、それに対抗する教皇がまさに求められ
ているのである。ラツィンガーはもはや若くない――78歳だ。しかし、
アンジェロ・ロンカリがヨハネ23世として教皇になったのも同じ年であ
る。ヨハネ23世は第2バチカン公会議を召集して教会を反転させ、おそ

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04月24日(日)
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