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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 門庭再訪 〜 本宮 啓 先生との対話 〜
(江崎氏は、同志社中学に入ってノーベル賞をとったので、このときに
本宮先生が一中を落っこちていれば、ひょっとしてノーベル賞は、本宮
先生の手に落ちたかもしれないのである。このジョークは、一中同期生
だれもが共有できないところに要注意)
── お父さまも、ヴァイオリンを弾かれたんですか?
本宮 父(弥兵衛)は、もともと音楽には縁がなかった。同志社神学部
で宗教心理学を教えるかたわら、水泳部の初代部長だった。
(客間の写真額のひとつに、25メートル・プール建立の顕彰碑がある。
1925(長男=啓、誕生)年に同響(同志社大学交響楽団)が結成された
ので、たのまれて初代部長に就任されたらしい。
当時の借家は、戦後の法改正で、借家人が買取ることになったものの、
本宮教授は手許不如意である。これを知った水泳部のOBたちが一大事
とばかり、みんなが金を出し合った。体育会系ならではの美談である。
また、戦後しばしば上京されたのは、あるいは教育基本法改正のため
の会議だったか? (「幻の有賀勅語」P000参照)
── お父さまは宮城県ご出身とすると、お母さまが京都の方ですか?
本宮 いや、母も東北の岩手出身でね。
── 先生が中学のころ、すでに軍国主義たけなわですから、尺八なら
ともかく、ヴァイオリンなど非国民でしょう。ご近所の手前もあるし、
ご両親は反対されなかったんですか。
本宮 いいや、誰も反対せなんだよ。
── そうとう進歩的なご家庭ですね、ぼくの両親など、戦後10年も
たっているのに、西洋音楽を理解できなかったというのに。
本宮 ヴァイオリンなんかやってると、ヒマそうに見えるらしくてね。
サッカー部が創設されて、メンバー足らんからいうて引っぱりこまれ、
やっているうちに面白くなった。ある年、ボート部のメンバーが負傷し
たので、代りに(ピンチヒッターとして)三ヵ月後の優勝戦に出場して
くれという。とても無理やから断わると、連日連夜誘いに来て、最後に
ムリヤリ合宿に連れていかれた。これにはまいったなぁ。基本ができて
いないのに猛練習させられて、さすがにヘバッた。しかし、このときの
経験が、海軍で大いに役立った。
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── 江崎 玲於奈 えさき・れおな 1925(大正14)3.12 (大阪)
茨城県科学技術振興財団理事長。ノーベル物理学賞受賞者。文化勲章受
賞者。日本学士院会員、物理学。東大理 〒305-0032 つくば市竹園2-
20-3 つくば 国際会議場、茨城県科学技術振興財団(0298-61-1200)
── 《分野別人名録 20010301 読売新聞社》P384
本宮 啓・編《京一中サッカー部創部六十年誌 1999》
本宮 啓・編《同響70年誌 1995》 〜 貞方 敏郎・編《同響50年誌 1975》
本宮 啓・編《同志社中高管弦楽史 200・》執筆中
「pinch hitter」は、日本特有の野球用語。漕ぎ手=rower ;
I stood in for him as a member of rower.
海行かば 〜 最初の授業 〜
── 一中を出て、同志社大学に進まれた。そして学徒動員ですね。
本宮 母は法学部に行かせたかったらしいが、結局いちばん苦手だった
英文科に入ってね。もっぱら同響でヴァイオリンを弾いていた。やはり
オーケストラは楽しくてしょうがない。そんななかで、海軍に入った。
── 終戦の日は、どこにおられたんですか。
本宮 呉の軍港にいた。八月六日朝、朝礼で訓示していたら、とつぜん
ピカーッと光るものを感じた。何だろうと思っていると、十数秒のちに
ドドーンという(いままで聞いたこともない)大音響なんだ。いそいで
防空壕に向かっていると、監視兵が絶叫している。みると巨大なキノコ
雲が盛り上がっていて、そのあとから大爆風が襲ってきた。光速と音速、
そして爆震の順に伝わってきたらしい。想像もしないことがつぎつぎに
起こったので、みんなポカンとして思考停止してしまった。
── 爆心から、どれくらい離れていたんですか。
本宮 約30キロ東南でね。さっそく救援に向かうことになって、翌朝
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11月23日(金)
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