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与太郎文庫
by 与太郎
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■ やしき・たかじん胸いっぱい
るで知らなかった。
「なんでもええがな。じんちゃんの好きな歌でええから」
 と、佐々木さんは鷹揚だった。(ほんまに鷹揚な人なんです。ちょっ
と飲みに行ってくるわと営業中なのにふらっと出かけていっては、その
まま帰ってこなかったり、店の売上げの把握も頓着なし)
 最初にその店で歌ったのは「夜のピアノ」という自作の曲。
♪ぼくの神経は三角形になって/とがっているよピアノ/アキコがぼく
の事を/全然無視したんだよピアノ……という歌詞の、とんでもない曲
だった。それは今思えば、水商売をまったく知らない人間のする行為だ
った。
 ぼくは佐々木さんの言葉を真に受けていて、いつまでもその歌を繰り
返しては歌っていた。
 それを聞いていた十六、七の芸者(正確には半玉)が佐々木さんに、
「ちょっとお兄ちゃん、あのメガネやめさし!」
 その店でメガネをかけているのはぼくだけだった。さすがの佐々木さ
んでも、どうにもしょうがなくなった。
「じんちゃん、どんな曲でもかまへん言うたけど、もうちょっとほかの
歌ないの?」
 確かに、♪ぼくの神経は三角形になって……ではあまりにも店の雰囲
気とは合わないとはわかっていた。でも、佐々木さんの神経に合わせた
形が三角形だったのだ。
 それから数日のあいだに、ぼくは必死になってとりあえず二曲だけ歌
を覚えた。「雪が降る」と「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」
 季節はかんかん照りが続く真夏だったが、なぜか「雪が降る」と「フ
ライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」
 悪いことというのは重なるもので、その夏がまた異様に暑い夏だった。
「雪が降る」は客の神経を逆なでした。それでもぼくはこの二曲を意固
地に歌い続けた。
「暑苦しいなあ……なにかほかの曲ないの?」
 おっしゃる通りでございます。わかっております。でも今は「雪が降
る」しかないのです。
 その日から、ぼくはほかの歌を懸命に覚え始めたのだ。

 そうこうしているうちに、店に佐々木さんの友人のKさんが飲みに来
た。
 Kさんは京都駅の西側(九条)のあたりでレコード屋をやっていた人
だが、その横で喫茶店をオープンさせるのだという。ついてはチーフと
店長が必要なのだが、適当な人がいない。そこで佐々木さんに相談に来
たというわけだった。
「君、昼間はなにしてるの?」
 Kさんがおもむろに聞いてくる。
「学生です。昼間はなにもやってないです」
「じゃあ昼間だけ手伝いに来てくれないかなあ」
 とKさん。
「そうやなあ、じんちゃん悪いけど手伝ってやってよ」
 めったにものを頼まない佐々木さんまでがそう言うので、ぼくは渋々
OKしてしまった。佐々木さんの店のチーフもしばらく一緒に行くとい
うので心強かった。
 後でわかったことだが、Kさんと佐々木さんは同志社大学の同級生だ
ったそうだ。
 喫茶店がオープンして、ぼくとチーフが手伝いに行ったのだが、まっ
くと言っていいほど客が来ない。普通に来ないのではない。力強く来な
い。その力強さがぼくたちに無力感をあたえた。
「こんなに暇では商売になりませんねえ」
「ほんまやなあ」
 ぼくらはどうにも手持ち無沙汰であった。
 午後の三時になると、Kさんがチェロを抱えてやって来た。そしてい
きなり店の中で「イエスタディ」を演奏する。チェロの独奏である。
 演奏が終わると黙って出ていく。
「なに? 今の」
「さあ……なんやろねえ。オープンセレモニーのつもりと違うかなあ」
 なるほど、さすがはチーフ。だけどぼくは素直に「なるほど」とは言
えなかった。
 ところが次の日も午後三時になるとKさんはチェロを抱えてやって来
る。やっぱり「イエスタディ」を一曲だけ弾いて、スッと帰っていく。
「けったいな趣味やね」
 ぼくらは顔を見合わせて笑った。
 まあ「イエスタディ」はええとするか。それはええとしても、このK
さん、ぼくたちに給料というかアルバイト代をくれないのである。
 ぼくは佐々木さんに相談した。

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06月20日(日)
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