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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 閏二月三十日その後
代ローマの名残りである。十カ月からなる《ロムルス暦》では最後の二
ヵ月を数えなかったといわれ、行政上の都合から紆余曲折を経て、現在
の一月と二月が加わった。
ローマの師走は二月であり、新春に備えて借金を精算し、一年の日数
を調整する時期として閏月(のちに閏日)が挿入された。
欧米の表記では「一九九二年二月三十日を 30th.Feb.`92 とあらわし、
第二月という認識がない。September 〜 December も七から十番目に由
来するため「二四六九士」のような序列が成立しない。近年の日本では、
1992.2.30 が普及したが、コンピューターには暦法を併記した19920217J
も簡便である。
グレゴリオ暦以外の現行暦で、第二の月が三十日以上の例は、《ネパ
ール暦》三十二日0614、《インド暦》《イラン暦》は三十一日(いずれ
も 0520 )まである。
三十日でおわる暦には、エジプト暦を継承する《エチオピア暦》1110、
その亜流で古代ペルシア暦から分離した《パーシ暦》1024、他に《ヒン
ズー暦》など。《ユダヤ暦》では曜日調整のため二十九日または、三十
日の年(たとえば 19921106 )がある。
日本の文献では、もっぱら二十九日とする《イスラム暦》も、イラン
イスラム共和国大使館の対照式カレンダー(モスタザファン財団・版)
では各月に差があり、ヘジラ紀元一四一二年二月は三十日 19910811
である。
暦注にあるマホメットの命日ヘジラ紀元十年二月二十八日 6320525J
(月曜日)は従来の通説 0608Jよりも二週間前に置かれ、不詳とされる
誕生日(異説 0123?)も、ヘジラ紀元前五十三年三月十七日 5710429J
(水曜日)と明記されていて、太陰暦の行年は満六十三才、太陽暦では
満六十二才である。置閏法も、明治初期の《三正綜覧》には、現在の通
説と異なる年代がある。 (19911023)
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幼帝安徳天皇を奉じて婦女子を守りつつ寒峰の山裾を通り大枝の平家
の館にたどりついたのが寿永三年の大晦日であった。一説には、その時
幼帝を擁した婦女子の数は三十数名といわれる。しかし、大晦日といえ
ば今の二月初旬か中旬である/きびしい条件が重なったこの地は、生ま
て以来苦労を知らずに育った幼帝の健康をたちまちうばい、ついにおさ
なきお命をうばってしまったのである。
/「粗谷紀行」の中にも、「文治二年正月朔日天皇崩じ給う。これを栗
枝渡という所に葬し奉り、帰空梁天大禅門と法号し奉る。後の世よりし
て其の地に社を建て、いつき祭り是を八幡宮と申し、八幡宮は応神天皇
を祀り、安徳天皇を相伝にいはいまつる。」と書かれている。
── 園尾 正夫《秘境 祖谷街道をゆく 197901.. 阿波文庫8》P100 \740
02月29日(土)
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