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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 向田家の人々 〜 字のない葉書の姉 〜
かして』って言われ、猫用ソックスを編んで紐をつけてはかせたらロク
は嫌だ嫌だってタコ踊り。『ほんとに和子はバカだね』って姉は大笑い。
ちょっとした、どうってことのない話を面白くするのが姉でした。つま
らないことも楽しくまじめに。姉はおっちょこちょいでもあった」
 
 高円寺の恋人にも邦子はそんな話を披露していたのだろうか。恋人の
撮った横顔がデザインされた旗がはためく青山のスパイラルに向かった。
 
 「向田 邦子 没後四〇年特別イベント『いま、風が吹いている』」
のプロデューサー、テレビマンユニオン合津 直枝さんは、「『ゼロに
なったら力が湧く』。そんな邦子の言葉が今のコロナの時代に響く。
 向田さんの小説やエッセイは今も読まれ続けているし、開催の意味が
あると思いました」
 
 時を忘れ、長い間会場にいたのは居心地が良かったから。邦子の抜群
のセンスはグリーン、ブラウン、ネイビーと色違いで揃えたエルメスの
ポロシャツを観ればわかった。ケニア旅行で被った麦わら帽子と茶と黒
のバリーのパンプスも。そして直木賞授賞式に着た水玉のワンピースに
藤田嗣治のリトグラフ、池波正太郎や沢村貞子の本……。
 
「姉はものすごくいいものを着ていた。(略)普通の人の、三倍は服に
かけていたと思う。『ほかの人が、三年しか着ないのなら、私は十年着
るわ。気に入ったらとことん着る』」(向田 和子『向田 邦子の青春』)
 
 流れる勢いの直筆の脚本は文字がアイデアを追いかけているようだっ
た。邦子の声も初めて聴いた。「向田でございます。私、ただ今出かけ
ておりまして、これは録音テープでございます」。少し高く、早口なの
は東京っ子の証。それを和子さんに話すと「正直に言って、スカしてい
るのよ」と笑った。
 
 合津さんは一度だけ邦子と話したことがあるという。女性の転職情報
誌『とらばーゆ』の企画で電話したら本人が出た。「三つの小説で直木
賞受賞、働く女性としていかがですか?」と訊ねると、「あ、私、そう
いうことには全く興味ありませんの。ごめんくださいね」とガチャリ。
「ものの三秒で終わっちゃった。でも男だから女だからで仕事をしてき
たわけじゃないと、気づかされました」
 
 向田 和子さんは会期中、毎日会場に顔を出した。「若い方が勇気を
出して私にちょっとお話ししていいですかって声をかけてくれたり、ファ
ンの方が姉の言葉を全身に受け止めてお帰りになった。素敵な11日間で
した」
 
 和子さんとの話が終わって外に出ると雨は止んでいた。亡くなるまで
の10年余り、向田 邦子が暮らした南青山の夕日はまばゆく、すがすが
しかった。
 
 延江 浩 1958‥‥ 東京 /慶大卒/TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデュ
ーサー
/国文学研究資料館・文化庁共催「ないじぇる芸術共創ラボ」委員
/小説現代新人賞、ABU(アジア太平洋放送連合)賞ドキュメンタリー
部門グランプリ
/日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞など受賞/Nobue,
Hiroshi
※ 《20210319号 週刊朝日》
 
〔〕
 
…… 先にお辞儀をするな。みんなが頭を下げるのを見渡してから、
ゆっくりと頭を下げなさい。(向田 敏雄)
 
(1969)2月に満64歳で病没。逆算すると、おそらく明治37年(1904)
生まれだったろう。高等小学校卒業後、保険会社に給仕として入り、誰
の引き立てもなしに、会社はじまって以来といわれるほどの昇進をし、
地方支店長をつとめていた。そのため転勤が多く、家族もついてゆくの
で、必然的に子供たちも転校を繰り返した。
 
 小学校だけで、宇都宮、東京、鹿児島、高松(香川)と4回変わった
とは、後年の長女の弁。長女の下には、ふたりの妹とひとりの弟。4人
姉弟だった。
 
 新しい学校へ初めて登校しようという日、朝の食卓で、気の重そうな
子供たちに向かって父・向田 敏雄は演説口調で言う。
 
「しっかりご飯を食べてゆけ、空きっ腹だと相手に呑まれるぞ」

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08月22日(土)
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