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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 高倉健の喜怒哀楽
ないくらい感動させられる。もともと映画ぎらいの人がそういう文章を
書くわけではないから、ホメるとなれば手ばなしでホメる傾向がある。
映画に惣れるのは、結局ほとんどの場合、監督の力量によるもので、か
といって全篇にわたって、技術的な欠点や、ひとりよがりが皆無である
とは断定できない。アバタが、エクボに転化しているだけのこともある。
アバタだらけの映画でも、淀川さんのように努力して観察すれば、い
くつかの感動的なエクボを発見することは可能である。観ないよりは、
観たほうが、なにがしかの充足感が得られるのは、映画ならではの特殊
性である。その理由は、ひとことでいうと、完成した世界に接するから
で、加藤秀俊氏がTV・CMについて名づけた《もうひとつの世界》に
通じるものがある。
テレビドラマでは、何気なく観ていて、バカバカしいと思いながらも、
チャンネルを変えるのも面倒になって、最後まで観せられることがある。
コマーシャルは、他の番組にも登場して連続した《もうひとつの世界》
を見せるので、長期間にわたる説得力は比較にならない──劇場映画・
TV上映・テレビドラマの相異は、今回くわしく論じるわけにいかない
が《冬の華》が、テレビドラマの脚本家によって書かれたということは
重要な伏線になると思う。
充足感について ヤクザとカタギの日常性
テレビドラマは、いつでも消せるという姿勢で観ているのでエクボの
発見は困難であるが、劇場映画では、せめて入場料の半分でも見あうだ
けの収穫に努力するわけで、製作するほうも金もヒマも、テレビ以上に
かけているから、たとえばタバコを吸うポーズひとつでも、ある人にとっ
ては参考になると思えばよい。
一連の東映映画──ヤクザ路線と呼ばれる観客動員について一人前・
半人前のヤクザが劇場に列をなした、といわれる。彼らは、自分たちの
稼業が、正しく世間に伝えられているかどうか、監視するために通った
のではない。もっぱらヤクザがどうすれば正しく、カッコよくみえるか
を学ぶために足を運んだ。そして彼らの支持する理想的なヤクザ像とし
て、高倉健はその頂点に立った。半人前以下の連中は、もっぱら脇役の
演技を観察しているにちがいない。そうして何本も、何種顆ものヤクザ
映画を観ているうちに、共通した矛盾に気づいたかもしれない。
ひとつは、高倉健はじめ、演技者たるものの日常がまったくカタギの
世界(本職のヤクザに比べれば)であること、もうひとつは、ヤクザの
組織そのものが無理と矛盾の上に成りたっているという現実である。
そんなことは当然だ、といえる。ヤクザの世界だけでなく、カタギの、
一般庶民の日常も、ちょっと考えれば無理と矛盾の上に、かろうじて成
りたっている。なんで毎日こんな苦労しているのか、交通事故ひとつで、
すべての計画が狂ってしまうようなギリギリの状況である。夫婦げんか
で、一方か消えてしまえば、一家の構造はご破算になって、よほど非凡
な工夫をしないと家庭というイメージも失せてしまうだろう。
カタギの庶民は、したがって日常の変化を好まない。平時にあって平
時が永久に続くと信じてやまない。テレビドラマは、そういう人たちに
迎合するための作品である。10分あるいは、15分ごとに、このドラマは
作りごとですよ、というためにCMを流している。地位も金も名誉もあ
る初老の男性が、才色兼備のヒロインと道ならぬ恋に悩んでいても、誰
も本気で観ているわけではない。つぎにどうするか、という興味だけで
毎週たのしむだけである。下町の気のいいおかみさんが、年頃の息子や
娘のことに、年がら年中かまけているようなホームドラマも、そらぞら
しい。ほとんどの観客は、車の買いかえや、生命保険の有利な加入とか、
安あがりで話題にしやすい週末旅行の行先などが、主な関心事である。
自分の関心事は、自分で決定したり検討しなければならないから、一
気に根をつめて考えることはしない。あれこれ考えているうちに、時間
が来てテレビドラマが始まるから、あの人はどうなるか、と思いだすわ
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10月09日(月)
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