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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 阿部 加奈子 〜 Abe, Kanako 19730323 Osaka /
んですが、答えられないとそこで不合格。もちろんこれも初見で演奏し
なければなりません。こんな感じで1週間くらいかけて試験を行います。
つまり、このクラスに入ってくる人たちはどんな複雑な曲もすらすら
読めて初見に強い、モンスター級の能力の持ち主ばかりなのです。その
ため伴奏科は一種の職業あっせん所のようになっていました。「本番直
前にソリストが急病になり代役を探している」というような緊急要請が
フランス各地からこの伴奏科宛てに入ってくるのです。伴奏科の先生の
手元には学生の特質や得意ジャンルを把握したリストのようなものがあ
って、プログラムや共演者との相性を見ながら「じゃあ、誰々がよいで
しょう」といって適任者を派遣します。
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伴奏ピアニスト時代。トランペットは現在ミュンヘン・フィルの首席
奏者アレクサンドル・バティ。
伴奏科に入学後は、私もこの「職業あっせん所」にたびたび仕事を紹
介してもらいました。一度、地方の音楽院に伴奏を頼まれて行ったので
すが、着いてみたらピアニストは私一人。そしていろんな楽器を持った
音楽院の生徒がずらーっと100人くらい並んでいる。この生徒たちの伴
奏をしなさい、というのです。もちろん初見で! 40人くらいまではな
んとか頑張って正気を保っていたのですが、80人を超えたあたりからだ
んだん目が見えなくなってきて、最後はあまりにも疲れ果てて泣き出し
てしまいました。するとようやく周りの先生たちも「これだけの人数を
一人で伴奏させるのはおかしい」「こんなことは人道的に間違ってる」
と言い出して(気づくのが遅すぎる!)、その日は音楽院のそばにホテ
ルをとってもらい一泊してから帰った、なんてこともありました。
20代の頃。本番前のひととき。 恩師のもとで培った音楽の基礎能力
当時は「指揮者になりたい」とか「ピアニストになりたい」という以
前に、とにかく「音楽家としてのスキルを蓄えたい」と思っていました。
だから仕事は来るものを拒まず、あらゆるものをやりました。時にはポ
ップスの編曲やピアノの出張レッスンなどもやりましたが、一番多くや
ったのが伴奏の仕事で、多い時にはバレエやオペラの伴奏ピアノに加え
て何十人分もの伴奏を掛け持ちしていて、頭の中に何十曲もの音楽が入
っていました。本番直前でギブアップしてしまったピアニストの代演を
急に頼まれ、難解な現代曲のピアノパートを弾く、などということもあ
りました。
フランスの古城で開催されたリサイタルで歌手の伴奏をした時。寒か
った…
この頃はいつも必死でした。結婚を機に、言葉もままならないうちに
フランスに移住することになったので、「自分は外国人なんだ」という
意識がとても強かったのです。フランスのように自国の文化に誇りを持
つ国で外国人の自分が音楽家として仕事をしていくには、とにかくスキ
ルがなくちゃいけない。だから「20代は修行時代」と位置付けて、何が
あっても歯をくいしばって頑張ろうと思っていました。
当時住んでいたパリの自宅で。
外国で修業時代を生き抜くことができたのは、芸高・芸大時代に恩師
たちから授かった基礎教育の賜物だと思います。なかでも、私が中学生
の頃から大学までお世話になった永冨正之(1932〜2020)先生は日本に
おけるソルフェージュ教育の大家で、フランスの先進的なソルフェージ
ュ教材をレッスンに積極的に取り入れていらっしゃいました。クレ読み
(ト音記号やヘ音記号以外のさまざまな音部記号で楽譜を読むこと)や
複雑なリズム視唱(楽譜を読んでリズムを叩く)など、当時は「なんで
こんな勉強をするのだろう?」と思うような難しい教材をたくさんやら
されましたが、永冨先生のもとで培ったソルフェージュ能力(楽譜を読
み、演奏するための基礎的な能力)は修行時代に大いに役立ちました。
特に、複雑なピッチやリズムが頻出する現代音楽の演奏の時にはとても
重宝され、おかげでのちに多くの現代曲の初演指揮を手掛けることにも
繋がりました。
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03月23日(金)
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