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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 客体から主体へ 〜 現代芸術の理解のために 〜
のが出て来ます。これはキェルケゴールが「死に至る病」で言っている
言葉、即ち「自己とは自己自身に関係する所の関係である」というのが
最も良く現わしている様に思われます。しかしこんな言葉だけを書いて
みても全く無意味なので説明をしてみましょう。
この段階にまでつきつめていきますともはや主体的になり得る可能性
を持ったものは自己自身しか残されていないわけです。そこでこの自己
自身は主体的になろうとするのです。所が主体的になるとそれはすぐ客
体となってしまいます。即ち主体的であろうとする観念が既に客体であ
るのです。この関係は所謂弁証法的に無限に発展するわけでしてこの主
体的になろうとする無限の傾向がとりもなおきず主体的な自己なのです。
即ち自己自身に関係するその関係そのものなのです。もっともここまで
来ますともはや言葉や文字で表わせる領域ではありません。
所でこの主体的自己は更に一歩進めますと、その自己自身に関係する
所の閲係の否定という事にまで発展します。これほとりもなおさず自己
の否定です。自己の否定では、即ち一切の物の否定です、一切の物の否
定とは、即ち「無」なのです。仏教の、禅の本質とする所の無なのです。
しかしながら、ここに又一つの問題が有ります。と言うのは、我々は決
してその無にはなり切れないのです。そこでここに無になろうとする無
限の傾向が存在するのです。この傾向こそ我々が「実在」と呼んで良い
ものではないでしょうか。
私が今迄、長々と書いて来た客体から主体への移行の最終の段階であ
るのです。
以上何かこの文の札的にそれた事を書いてきた様に思われるかもしれ
ませんが、この様な現代芸術の裏づけとなっているものの理解なくしで
は、当然その作品の本質に触れる事は不可能な事です。
即ち換言すれば現代芸術とはそれ白身この実体になろうとする傾向を
持つと云うわけなのです。この傾向の音楽に於いての現われが電子音楽
であり、絵画に於いてはアンフォルメルです。
先ず電子音楽について述べたいと恩いざす。古い音楽として19Cのロ
マン派の音楽を上げるならば、それは実さい、美しくもあり、人を感動
さす力を持っています。所が我々がそれを聴いて感動するのは音楽それ
自身に対してではなくて、その音楽によって起された我々白身の感情と
か、感覚とかに感動するのです。
例えばショパンの「別れの曲」を聴くとすると、我々は別れという標
題から、あるいはその音楽の雰囲気から、悲しみという感情を感じそれ
に心を打たれるのです。音楽の要素たる音程・リズム・和声とかいうも
のは唯その組合せにより、そういう雰囲気を作り出す手段にすぎないの
です。所が電子音楽に於いてはどうでしょうか、私は特に電子音楽の生
みの親であるウェーベルンの音楽について述べたいと思いますがそれは
最早や単なる感情をかき立てる手段という様なものではなくて、その音
程・リズム等はそれ自身が目的であり、一個の存在として、即ち主体的
存在として存在するものなのです。この様な事は言うまでもなく、その
音楽を聴いていただいたらすぐわかる事です。所が19C的な観地から
それを聴ぐ人々はその音楽を、相変らず感情の手段として聴くもんです
から奇異な感じを持たなくてほならなくなるのです。我々はこの音楽に
音楽以外のものを求めるべきではなく、音楽それ自身のもつ主体的な存
在を求めるべきなのです。だからあるイメージを浮はそうとしたり、感
情的な基準からその音楽を判断する事は大きな誤りです。唯何も思わず、
考えずにその音を一つ一つはっきりと聴いて、その存在を認めたら良い
のです。そうすれば、そこに存在と存在との交通が起り、その音楽は我
々に実存的な感動を与えるのです。
アンフォルメルの絵画でも全く同様です。その絵から、何が書いてあ
るかとか、色彩が美しいだとかいう様な事を求めるからいけないのであ
って、何等の先入観にもとらわれず、透明な心で直接その作品を見れば
良いのです。
この様に現代の芸術というものは、単なる人間の付属物たる客体的存
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06月02日(日)
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