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与太郎文庫
by 与太郎
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■ いそいそ 〜 something wrong 〜
であるか。それは神のもとである。その神のもとから落ちたということ
が、聖書のいう「人間の堕罪」である。人間は神のもとから離れ落ちる
ことによって、本来あるべきところから、本来あるべきでない所へ落ち
たのである。従って人間には、本来起るべきでないはずの事が起るに至
ったのである。人間の根源的存在に「矛盾」が直感されるのほ、このた
めである。──これが聖書の解明である。
人間はこのような意味において「脱落存在」である。あたかも列車が
レールの上を走っている限り、きわめて滑かに進み得るのに、レールか
ら脱線すると、起ってほならないはずの事としての転覆が起るように、
人間が神のもとにいたなら、人間存在のうちには何の矛盾も存在しなか
ったはずであるのに、神のもとから脱落したことによって、起ってはな
らないはずの事としてのさまざまの矛盾が人間存在を見舞うに至ったの
である。これが人間存在の「矛盾」に対する聖書の解明である。
(五)人問の矛盾を単に「直感」したり「叙述」したりするだけでなく、
これを「解明」することによって、キリスト教はどのようにその「矛盾」
の姿を描くであろうか。(P25-28)
人生における聖書の位置
人間の堕罪以前においても労働そのものが人間に課せられていたこと
は、創世記二・一五に「主なる神は人をとってエデンの園に置き、これ
を耕させ、これを守らせられた」と記されていることによって明かであ
る。しかしこの「本来あるべきはずの状態」にある限りでの人間の労働
は、人間にとって何ら重荷の性格をもたなかった。換言すれば、そこに
は何らの否定的なものが介在せず、人間にとって労働は全く肯定的・調
和的な性格において受け取られていたということが出来る。そこではお
そらく労働は人間にとって積極的に「いそいそと」受け取られたであろ
う。「職業労働」(ベルーフ)が同時に神の「召命」(ベルーフ)であ
るというピューリタン的職業労働観は、本来はこの場所でいわれるべき
ことである。そこではあらゆる職業労働が直接無媒介的に神から祝福せ
られるものと考えられるのである。しかし現実にある職業労働は、人間
の堕罪の結果刑罰として宣言されたものであり、人間にとっては否定的
であり重荷である。したがって「労働を自己目的として追及することは、
人間の本性には属しない」こととなるのである。(P29-30)
聖書から見た「自殺」
昭和二十八年十二月二十八日に国警本部から、戦前戦後十三年間の日
本における自殺者の統計が発表された。これによると昭和二十五年が最
高で二万千七百十人にのぼり、最低だった昭和十五年の一・六倍となっ
ている。昭和二十六、二十七、二十八年とも二万人をやや上廻っている。
これを平均すると大体一日に五十七人ぐらい自殺していることになる。
日本だけでも毎日五十七人の人間が自分で自分の生命を絶っているので
ある。全世界では驚くべき数字となるであろう。
しかしこのような客観的な統計などをいくら出しても、自殺という問
題の真相にはほとんど触れたことにはならない。自殺ということは、客
観的な観察では触れられない徹底的に主体的な事柄だからである。「死
にたる者にその死にたる者を葬らせよ」(マタイ伝八・二二)という言
葉がある。これは、人間が死者のことなどあまり考えないで、生きる道
のことを考えるべきだということを、教えていると取られるが、然し裏
から解釈すれば、死者を真実に葬り得る資格はただ死者のみがもってい
る、という意味にも取られ得る。生者には死者を葬る資格がない。生者
には死者を慰める権利がない。自殺しない者には、自殺者のことを考え
る資格と権利とがない。自殺者のみが自殺について考え且つ語る資格と
権利とをもつ。(P73-74)
聖書から見た「罪」
バルザックの『セザル・ビロトー』の中につぎのような一節がある、
https://booklog.jp/item/1/4894341433(19990730)
……「利益を侵害されたとか、傷を負わされたとか、あるいは頬をなぐ
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12月10日(金)
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