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与太郎文庫
by 与太郎
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■ ロマノフ王朝の最期 〜 Расстрел царской семьи 〜
しかし、横光 利一は、京都から大津に向かう中、ロシア側の随員が
ニコライ皇太子に、琵琶湖周辺の風景の美しさを賞めた際に、太子がロ
シア語で「いづれここも自分のものになる」といったのを、ロシア語の
学者でもあった津田が激高したためとしている。また横光 利一は、津
田は地元の大津人からはとても尊敬されており、当時の津田を調べた裁
判官の児島 惟謙の日記を見ても、津田に同情的な記載があり、人の想
像より人格者で憂国の士であったため、死刑にはならなかったと記載し
ている。ニコライ皇太子の発言がこのようなものだったとしても、公に
は出来るはずもなく、またこれを理由に処罰をしなかった場合、当時弱
国に過ぎない日本がロシアを畏怖し処罰せざるを得なかったことは想像
できる。実際当時の帝政ロシアは陸軍国としては世界一であった
── 《橋を渡る火 〜 畠山 勇子のこと 19440100 婦人公論 第29巻》
横光 利一 作家 18980317 福島 東京 19471230 49 /籍=Toshikazu
♀畠山 勇子 芸妓 186512‥ 安房 京都 18910520 25 /自殺“烈女勇子”
津田 三蔵の墓(伊賀市大超寺)。事件後、津田は巡査を免職されると
同時に、先述の勲七等も0516日付で褫奪された(褫奪の告示は事件から
6日後の号外、7日後の通常号の2回行われている)[6][7]。そして0527
日に無期徒刑の判決を受け、0702、北海道の標茶町にあった釧路集治監
に移送・収監されたが、身体衰弱につき、通常の労役ではなく藁工に従
事していた。同年0929日に急性肺炎を発病し、翌0930日未明に獄死した
[8][9]。遺骨は遺族らに引き取られることもなく、集治監の墓地に埋葬
された[10]。墓所は伊賀市大超寺にある。
児島 惟謙に阻止されたものの、外国皇族を傷つけた犯人として政府
内に死刑にすべきという意見があった津田が収監直後に獄死しただけに、
他殺や自殺強要、自殺を疑う声もあった。1972、網走刑務所長であった
佐々木 満が関心を抱いて北海道内各地の刑務所へ資料の有無を尋ねた
ところ、旭川刑務所に標茶分監医務所長の詳細な日誌が引き継がれてい
たことが発見された。津田は、取り押さえられた際に受けた傷は癒えた
ものの疲労と頭痛を訴えて9月上旬から食欲が減退し、牛乳や葛湯、菓
子、馬鈴薯、梨、コンデンスミルクなどを与えて体力を回復させようと
するも努力空しく、0929 00:30 息を引き取った。日誌の分析結果は
《大津事件 津田三蔵の死の周辺 1974 網走地方史研究 第7号》として
掲載された。(Wikipedia)
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07月17日(水)
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