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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 伊福部 昭 at 鳥取 〜 19140531-20060208 〜
で作曲を学んだ松平頼則であった。後に松平と伊福部はともに新作曲派
協会を結成することになる。同曲は翌1936年、セヴィツキー指揮、ボス
トン・ピープルス交響楽団によりアメリカで初演された[20]。なお初演
の際、チェレプニン賞への応募に合わせて第1楽章はカットして演奏さ
れ、そのカットした部分の楽譜は現存しないため、永遠に幻となった
[18]。なお、この幻の日本狂詩曲第一楽章「じょんがら舞曲」は、日本
狂詩曲のスコア浄書を手伝った、次兄・勲の追悼のために書かれた
『交響譚詩』の第二譚詩(第二楽章)にその一部が組み込まれている[21]。
これを機に初演の年来日したチェレプニンに短期間師事する[20]。日
本狂詩曲は大編成の大作だが、何度も演奏されやすいよう編成を考えて
書くべきというチェレプニンの意見に従い、次作として14人編成で全員
ソロの小管弦楽曲『土俗的三連画』を書いた。チェレプニンは伊福部に
ニコライ・リムスキー=コルサコフの『スペイン奇想曲』のスコアを渡
し、筆写して学ぶことを勧めた。
なお、《日本狂詩曲 1936 龍吟社》は、チェレプニン・コレクション
として楽譜が出版されている[22][23]。表紙のデザインは、美術にも関
心が深かった伊福部自身が手がけた[23]。この楽譜は、日本国内では僅
か9冊しか売れなかったが、海外での購入者の中には、ラヴェルやジャン
・フランチェスコ・マリピエロらの名前もあったという[22]。
《ゴジラ VS キングギドラ 19911214 東宝》77歳で13年ぶりに映画音
楽を担当 [出典 6][注釈 17]。
墓所は鳥取市国府町の宇倍神社にある。
自宅の書斎には「無為」という諸橋轍次の書があり、いつもこの書を見
てから仕事を始めた[53]。
語録
「作曲家は氏・素性を音楽で語らねば駄目だ」[54]
「真にグローバルたらんとすれば真にローカルであることだ」[88]
「17歳から22歳までに得たものは一生離れない」[88]
「楽譜をきれいに書けない者は良い音楽が書けない」[88]
「自然無為が大切だ」[88]
「香水は物凄く臭いものから作られる」[88]
映画音楽デビュー作『銀嶺の果て』は、監督の谷口千吉にとっても、
また主演の三船敏郎にとってもデビュー作であった。その『銀嶺の果て』
の打ち上げの席で、小杉義男に、「あんた、監督さんにあんなふうに口
答えするなんてどういうつもりなんだ」と、論争したことをとがめられ
た。しかし小杉が離れたあと、志村喬がやってきて、「音楽の入れ方で
監督と論争する人は初めてだ。これからも大いに頑張りなさい」と励ま
された。[要出典]
1948年、映画の仕事で京都に滞在していた際に、撮影所そばの小料理
屋の二階で月形 龍之介[注釈 20]とこたつで酒を飲んでいると、途中か
ら入ってきた男がいた。「またもらい酒か」などと言われながらもニコ
ニコしながら酒をおごってもらい、名前も名乗らぬままおごり酒に酔い
つつ飄逸、洒脱な話題で延々大飲した。その際の俳優や映画会社への愚
痴から、伊福部は「不遇な映画人」という印象を受けたという。伊福部
はその男と気が合い、その後も数年間、お互いの名前も分からないまま
たびたび会っては酒をおごらされていた。
この男こそ特技監督の円谷 英二で、当時、円谷は公職追放中の身で
あった。のちに映画『ゴジラ』の製作発表の現場で再会し、2人とも大
変驚き、またお互いに初めて相手の名前を知ったという[27][1]。
円谷 英二は特撮のラッシュ・フィルム(編集前の現像されたばかり
のフィルム)を、他人に決して見せなかったが[27,1]、特別にラッシュ
を見せてもらい、作曲に活かしていた[注釈 21]。これも数年間にわた
る円谷へのおごり酒が背景にあり、冗談めかして「なにしろ円谷さんに
はそういう“神の施し”があったもんですから」と語っている[1]。
また、『サンダカン八番娼館 望郷』などでコンビを組んだ熊井 啓も、
「作曲家はふつう、編集ずみのフィルムを見て音楽をつけるが、伊福部
さんは撮影されたフィルムを全部見ていた」と証言している[54]。
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05月31日(日)
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