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Kenの日記
by Ken
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■宮崎兄弟生家へ

今回の長崎帰港では実家に帰らずに長崎近辺を散策することにしました。昨日は血液検査・大腸内視鏡検査予約の後に長崎市「稲佐山」に登山しました。今日はこれまでずっと温めていたプランの熊本県荒尾市の「宮崎兄弟生家」を見学してきました。「宮崎兄弟」とは宮崎家の長男格「八郎」、次男格「民蔵」、三男格「彌像」、そして末っ子の「虎蔵(滔天)」を言います。
滔天が「孫文」をサポートし辛亥革命成功に功績があったことにより、2011年の辛亥革命100周年の年には台湾・中華人民共和国などからも注目を集めた場所です。更には最近では「白蓮」と駆け落ちした滔天の長男の「宮崎龍介」の実家として全国的に注目を集めました。しかし今日土曜日の午後の見学者私一人でした。暫くは静かな日々が続くことになるのでしょう。
長崎から荒尾に行くには幾つかの方法があります。荒尾市は島原半島から有明海を挟んだ反対側なので、島原半島の多比良からフェリーで行くのが最短距離となります。しかしこのルートは歩き区間が多かったり待ち合わせ時間が長かったりして苦労を伴うものです。楽な方法はJR長崎本線とJR鹿児島本線を乗り継いで有明海を迂回する方法です。これは殆ど列車の旅となります。私は有明フェリールートを選びました。今日のルートは以下となりました。
長崎駅(JR)→諫早駅、
諫早駅(島原鉄道)→多比良駅
多比良駅(歩き10分)→多比良フェリー港
多比良フェリー乗り場(フェリー40分)→長洲フェリー港
長洲フェリー港(歩き20分)→長洲駅
長洲駅(JR2駅)→荒尾駅
荒尾駅(歩き10分)→宮崎兄弟生家
宮崎兄弟生家の「宮崎家」はかつて荒尾随一の財力を誇ったのですが、敷地こそ広いものの現在残されている家屋は非常に質素なものです。実はこの質素な佇まいこそ「宮崎家」の凄さの表れなのです。宮崎家は江戸初期まで遡ることのできる名家ですが、明治維新前後の動乱期に当主であった4兄弟の父親の「宮崎政賢」の教育が大変優れていたようです。それは一言でいうならば「世の中(人々)のためになることを為せ」というものです。そしてその教えに忠実に従った宮崎家の兄弟は、諸国に遊学して金を使い、目的を定まったら生活を顧みずにわき目も振らずに邁進する行動力を備えていたのでした。
長男八郎と次男民蔵は社会改革に取り組みました。八郎は西南戦争で命を落としますが、民蔵は昭和まで生き延びました。その次男の民蔵は明治時代にアメリカに留学するし、彌蔵と虎蔵は生業に殆ど付かずに中国革命運動に身を投じたのでから、宮崎家の財産はどんどん少なくなっていったのでした。4人の子供を励まし続けた母「さき」さんもすごい母親だったのだと思います。
彌蔵と虎蔵の目は中国に向けられました。日本が明治維新を経験して社会改革の端緒に辿りついたのに、中国では相変わらず旧態依然の清朝の支配が続き、欧米列強の浸食が激しさを増して中国社会は疲弊し混乱していました。彌蔵と虎蔵は中国の社会改革に目的を定めました。ここで比較すべきは「福沢諭吉」の「脱亜入欧」という思想です。「福沢諭吉」は古い体制から抜け出せない「アジア(中国・韓国)」とは一線を画し日本は欧米列強の仲間入りをしようという主張したのでした。福沢は中国・朝鮮を見捨てたのでした。その福沢の考え方に従った大日本帝国は、歴史が証明したように欧米列強と同じように中国韓国に武力進出することとなり最終的に太平戦争の敗戦まで付き進んだのでした
彌蔵・虎蔵の考え方は全く別なものでした。二人は中国・韓国が社会変革できないのであれば、それを助けようと考えました。そして社会変革を担う人材がいないのであれば自分達が中国人になってその役割を果たそうと考えたのでした。この思想が「孫文」に通じて宮崎兄弟は孫文から真の革命同志と認められたのでした。当然ですが宮崎兄弟は政府から監視されました。日本政府の方針は「脱亜入欧」であり、孫文の革命運動を助けるどころか逆に「21か条の要求」を突き付けて火事場泥棒的な行動に出たのでした。
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09月10日(土)
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