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Kenの日記
by Ken
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■香港の果たした役割
香港島は第一次アヘン戦争後の1842年の南京条約で、また九龍半島南部は1860年の第二次アヘン戦争後の北京協定において中国からイギリスに割譲されました。その後1898年の北京協定において九龍半島北部およびその付近の島(新界:New Territories)が99年の期限をつけてイギリスに租借されることとなりました。1842年からイギリスの施政下にありましたが、食料だとか水の供給源としての新界を得たことによって、香港はイギリスの窓口・中継地というだけではなく、独自の発展を遂げることができたのでした。

「新界」租借期限切れが迫ると、イギリスのサッチャー首相と中国の搶ャ平氏の間で「香港問題」が話し合われ、「新界」を中国に返還してしまった「香港」の存続は難しいという判断から、1997年の1月1日を持って「香港」は中国に返還されることとなりました。その協定は「中英共同宣言」(1984年12月19日)で定められました。この協定の中には「50年間は一国二制度を継続する」旨等のその後の香港のあり方が決められおり、1997年の香港返還後以降も従来の体制が継続しています。

この香港が19世紀からイギリスの影響を受け始めたことに比べ、お隣のマカオは16世紀の大航海時代からキリスト教の布教の基地としての役割が大きかったといえます。イエズス会宣教師はマカオを本拠地として東アジアでカトリックの布教に努めました。更に19世紀イギリス統治下に入った香港においてはプロテスタントの教えが広がりました。

そして大陸中国の清朝が列強の進出・国内の内乱等で混乱期にある中、香港ではキリスト教を基礎とした近代的な教育制度・医療制度がどんどん広がっていったのでした。

このようなことを想像するのは香港・マカオに近い中国南部広東省の香山生まれの「孫文」が香港で近代的な教育を受けて、マカオで診療所を運営しながら革命初期の運動に携わった事実があるからです。その舞台が「香港」「マカオ」でした。香港がイギリス領であったお陰で中国官憲の捜索の目から逃れることが出来たのでした。ロンドンの中国大使館に捕囚された「孫文」を助けたのも孫文の師のイギリス人でした。この孫文を始めとする多くの革命家の活動が近代中国を生んだのでした。

この孫文の活動を多くの日本人が支援しました。しかしそれは決して当時の日本政府の意思ではなく、民間の篤志家のボランティア活動が中心でした。残念ながら日本政府は中国の混乱に乗じて日本の権益拡大を図る道に走り、その結果として第二次世界大戦の敗戦に日本を導いてしまいました。

このような歴史的な場所を実際に体感してこようと思っています。
05月01日(水)
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