ID:85567
Kenの日記
by Ken
[99208hit]
■「政府へ尋問の廉有之」
昨日麻生内閣の鳩山総務大臣が大臣辞表を提出し麻生首相に受理されました。鳩山総務大臣は長らく日本郵政株式会社の「西川社長」の社長続投に反対の姿勢を取ってきたものの、最終的に麻生首相の決断で社長指名の拒否権を持つ「総務大臣の首」を切られたもの。喧嘩両成敗的な「ばら色」の決着ではなく、一方的に片方を切るという最近では珍しい麻生首相の決断でした。
ところで辞任した鳩山氏は辞任後の記者会見の中で、無念さを顕にしながら西郷隆盛の「政府へ尋問の廉有之」という言葉を引用しました。非常に興味があったので調べてみました。
この言葉は1877年(明治10年)下野していた西郷隆盛が鹿児島の私学校生徒等の動きを押さえ切れずに決起し、武装した西郷軍が熊本城下を抜ける通行許可を得るために熊本鎮台司令長官に宛てた手紙の冒頭の言葉です。鎮台司令長官はこの勿論これを了承せずに西南戦争が勃発したわけです。但し、この手紙は西郷隆盛の直筆ではなく、書かれている内容も西郷の意に反する部分があったと言われていますが、この冒頭の言葉が有名になっています。
西郷の「政府への尋問の廉」とは何であったのか。この時際西郷隆盛は「征韓論」で大久保・岩倉・伊藤等に敗れ「下野」したとされています。この辺りの話は最近ずっと興味を持って考えてきたテーマです。
「頑なな朝鮮との交渉をどのように進めるか」これは欧米視察旅行(1871年から1873年)で大久保、岩倉、伊藤等が留守の間に持ち上がった問題でした。当時の日本に残った明治政府の留守番のリーダは西郷隆盛でした。断固朝鮮に武力出兵すべしという過激論を押さえて、西郷は穏当な外交儀礼として礼を尽くして自ら交渉にあたる事を決定しました。西郷隆盛としては「江戸城無血開城」を実現したように、礼を尽くし誠意を持った交渉によってこじれてしまった朝鮮(その背後の清朝)との関係を修復し友好関係を築くことができる自信があったのでしょう。西郷は清朝、朝鮮、日本の民族に脈々と流れる「道徳精神」「武士の精神」等への確信・期待があったことと思います。
ところがヨーロッパ視察から帰国した「大久保・岩倉・伊藤」はヨーロッパ先進国の最新の状況に非常に感化され、西郷の穏当な交渉案を廃案とし、富国強兵策を推し進めることとなります。別な言葉でいうと、西欧列強が産業を興して強国となったように、日本はまず近代化を推し進め、軍事力を増強して、西欧列強のように植民地政策を採用して朝鮮・中国問題に対処していこうというものでした。これは結果的に福沢諭吉の「脱亜論」の考え方とも一致するものでした。この大方針に基づいて近代化に成功した日本は「日清・日露」の戦争に勝って列強の仲間入り(植民地支配競争に参加)を果たし、満州国を建設して大東亜戦争へと突き進んだのでした。
翻って、西郷隆盛の考えは「文明とは道の普く行われるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華をいうの非ず」というものでした。もし西郷隆盛も欧米使節団に参加していたらどのようになっていたか。私は西郷隆盛が欧米の近代化精神の真髄を掴みつつも、東洋の道徳精神の素晴らしさを再確認したはずだと思います。そしてそのような西郷隆盛の存在する明治政府の指導によって明治以降の日本の近代化は別の道を辿っていたはずだと思います。この西郷隆盛の精神は、インドのタゴール、ガンジーや中国の孫文の考えと全く同じものだと思います。まさに西南戦争の勃発は日本のその後の日本の行く末を決めてしまったのではないと思われます。そして現在でも近代化した日本社会にその時の「忘れ物のつけ」が残っているのではないかとも思われます。
鳩山氏がおっしゃる「正しい事」が本当に正しいのか、麻生首相の判断が正しいのか、それは歴史が決めることです。しかし少なくともその判断基準が「選挙」・「党利党略」であったりすると「正しさ」の根拠が正当なものだとは言い難い気がします。そして将来の歴史を知ることができない現在の人々は、現在の自分の私利私欲のない道徳精神に基づいて決断するしか方法がないのも事実です。それが多少間違っていようとも。と思いました。
06月13日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る