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Kenの日記
by Ken
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■コルべ神父のこと
不運なことは重なるもので、雄太郎氏が掛けていた洋館の火災保険は前年12月末で切れていたのでした。雄太郎氏は店子の面倒を見ることを優先したようで、嵩山家は建て直しもままならないまま数年間焼残った建物の一部で暮らすことになってしまったようです。この火災は嵩山家の生活を一変させてしまったのでした。
1981年(昭和56年)3月そのような状況下にある嵩山家を訪れたのが当時「女の一生」でコルベ神父のことを小説書く準備をしていた「遠藤周作氏」でした。遠藤周作は1977年にアウシュビッツを訪問しコルベ神父のことが頭から離れない状態だったと想像されます。焼け跡に残された「暖炉」をみた遠藤は嵩山雄太郎氏に次のように語ったのでした。
「大浦天主堂にはたくさんの修学旅行生が来ますね。100人いたとしたら98人は他のことを考えても1人か2人の学生はコルベ神父の話を聞いて感動するかもしれない。何とか暖炉を保存して見学のコースにしてほしい」」この遠藤周作の励ましから嵩山雄太郎氏そしてそのご家族の格闘が始まりました。
嵩山家はその後焼け跡に残った暖炉(煉瓦の塊)を数メートル移動して焼け跡地を整理し上階にペンションを設えた住宅を建設しました。しかし暖炉は屋外に置かれたままの状態でした。嵩山雄太郎しは1991年に亡くなりますが、寄付を募った結果漸く1996年「暖炉」を収容する「記念館」が完成し、住宅の建物のコンクリートの壁を壊して通路を設け記念館は住宅と一体となったのでした(長崎市の建築許可はなかなか下りなかったとのことです)。
これが現在の「聖コルべ館」です。クリスチャンでもない嵩山郁子さんは毎日「聖コルベ館」を守りながら、コルベ神父・キリスト教に関するショップを運営されているのです。1996年9月に亡くなった遠藤周作氏は残念ながら「聖コルベ記念館」を訪れることはできませんでした。
私が嵩山郁子さんからお話を聞いている間中ショップには全く客は来ませんでした。遠藤周作が願ったように「100人の中の一人二人」にも達していないような感じではありました。私より二歳ほど年上の「嵩山郁子さん」は大変お元気です。遠藤周作氏と出会った嵩山家の人達は、お金では買えない豊かな生活を送っているように見えます。
03月10日(金)
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