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Kenの日記
by Ken
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■50周年特別企画第一回
当時の顧問の「A先生」はとても意欲的な方で、クラブとしてコンクール出場を目指しました。当時弦楽クラブと合同で「俄フルオーケストラ」を作って、コンクールに参加し、東京の「虎ノ門ホール」で演奏したのは懐かしい思い出です。その時に泊まった九段会館(旧館)は今も健在です。私は1年生でしたが、3年生の先輩は皆さん楽器演奏が上手く、しかも下級生を上手に統率していたことを思い出します。


コンクール直前の「朝練」に遅れると班長からお説教されるのでした。当時、親にねだって、ステレオを買ってもらい、なけなしの金でレコードを数枚買いました。持っていたのは、交響曲が主で、運命、新世界、悲愴、幻想、モーツアルト40番位かな。幻想をミュンシュで聞いていたのは、少し変った少年の証拠でしょうか。当時演奏会などというものは殆どなく、記憶に残っているのは、友人を誘ってはるばる長野市までバレエの公演(たぶんボリショイかなにか)を見に行ったくらいです。


当時の常盤中学校の教育には今でも疑問が多いです。非常に躾に厳しく体罰も結構ありました。今考えても「こういう言い方は子供を傷つけるな」という反省材料に事欠きません。少し違うかもしれませんが、「ビター・スィート」の感覚かな。後に、信州は教育県だという噂を各地で聞きますが、どこが教育県なのか未だにわかりません。


私の感覚でいうと、田舎なので非常に同質的な人達が住んでいたのだと思います。小さな共同体なので共同体の輪は非常に大事です。それが行き過ぎて、異質な者には嫌う、一定の距離を置く。共同体とうまくやろうとすると、自然と異質であることを恥じる・・・。人と接する尺度は自分達の共同体のルールで定める。その中に上手く入り込めて、上手に立ち回ることができれば快適なのでしょう。それができない人間にとっては、とても辛い。


この頃深夜放送が始まって友達の影響で「オールナイトニッポン」を聞き始めました。ニッポン放送の亀淵社長が新米アナウンサーで入ってきた頃です。セイヤングの「野沢なち・白石冬美」コンビも有名でした。近所の家からもらった古いラジオで、東京の電波を必死に探して、大きくなったり、小さくなったりする不安定な電波で聞いていました。その後深夜放送は高校・大学時代まで、少しずつ聞いていました。


受験勉強をそこそこして無事中学を卒業し長野市の高校に通うことになります。須坂駅まで15分。須坂駅から本郷駅まで電車で20分位かな。そこから坂道を歩いて10分位で高校に行き着けます。本当は電車通学するなんて全く考えていませんでした。実は実家の目の前の高校に進学すれば、朝チャイムがなってから走っていってもOKだったのです。それでも、少し無理をして電車通学しようと考えたのは、私の身体の中で、少しづつ異質な物への憧れが膨らんできたからだと思います。


故郷の須坂市には私の実家と妻の実家があります。でも誰も住んでいません。妻の父母は既に亡くなり、私の母は小田原の弟の所にいます。昔は、新幹線もなし。高速道路もなしの僻地でしたが、長野オリンピックのお陰で、新幹線・高速道路が開通し須坂も近くなりました。これは「堤さん」のお陰です。誰も住んでいない二軒の家の管理と、方々にある親戚縁者の墓参りが大きな課題です。

06月04日(土)
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