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日刊・知的ぐうたら生活
by schazzie
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■『彼方なる歌に耳を澄ませよ』
アリステア・マクラウドは長編作家である、と私は主張したい。というのも、先に短編集を2冊読み、それから長編の『彼方なる歌に耳を澄ませよ』を読んだところ、収まるべきところに収まるべきものが収まって、やっと落ち着いたという感じがしたからだ。
長編を読みながら、すでにネタ元はわかっているので(短編に書いてあることとほとんど同じだから)、少々飽きてきてもいたのだが、全部通して読んでみると、短編で感じていた不満が長編で解決したのである。
つまり、短編集でバラバラに書かれていたエピソードが、長編では時間の経過と共に整理され、何が誰のエピソードであるのかがわかるようになった。その上で、なるほどそういうことだったのかと納得がいったのだ。そして、短編ではあまり知ることのできなかった兄の存在が、はっきりと見えてきた。
マクラウドの作品のテーマは、すべて大自然の厳しさと一族の歴史といったようなことである。自伝ということでもないので、もとは同じエピソードでも、人や状況を違えて書いてあるのだが、これは短編にあったあの話だなとすぐにわかる。
記憶にあるそうしたいくつものエピソードが、長編で順序良くきちんと並べられ、バラバラのピースがきっちりはまったという感じである。短編では、何か書き足りないのではないかと思っていたのだが、こうしてやっと、マクラウド自身も満足がいったのではないかと思う。
しかし長編とはいえ、ひとつひとつの章は、短編としても通用するようなものだ。おそらくマクラウド自身も、短編のほうが得意であると思っているのだろうが、それを繋げてひとつにまとめたもののほうが、深みも出てきて、より感動的である。彼ら一族の時間の繋がりを描くには、やはり長編のほうがふさわしいように思う。
それにしても、ややこしい話ではある。おじいさん、おばあさんのほかに、おじいちゃん、おばあちゃんがいる。これはおじいさんが言ったことなのか、おじいちゃんが言ったことなのか、訳者でさえも間違えている部分があるくらいだから、読者が混乱するのは無理もない。
女性の名前はあまり重要視されていないようだが、男性の名前は非常に重要だ。父親や祖父の名前を子どもにつけるというのはよくある話だが、小さな島でのことだから、誰も彼も同じ名前だったりして、これは一体どこの誰のこと?ととまどう。
例えば、アレグザンダー・マクドナルドが死に、彼がもらうはずだったシャツを譲り受けたのは、いとこのアレグザンダー・マクドナルドであり、最後にそのシャツを持っていたのは、また別のいとこのアレグザンダー・マクドナルドだったりする。ちなみに、アレグザンダー・マクドナルドとは、アリステア・マクラウドのことであると見ても差しつかえないだろうと思う。
また、クロウン・キャラム・ルーアは一族の有名な先祖であるが、現在では、そこらじゅうにクロウン・キャラム・ルーアがいる。主人公のアレグザンダー・マクドナルドの兄も、キャラムである。「あなたもキャラム・ルーアですか?私もです」といった具合。
主人公が炭鉱で働いているときに、スコットランド人やアイルランド人、フランス系カナダ人などが一緒になって、バイオリンやアコーディオンなどの楽器を演奏し、歌い踊る場面がある。これって、ケイジャン・ミュージックじゃないの?と思い、ちょっと嬉しくなった。
しかし、本の裏表紙に「ユーモア」という文字を見かけたが、私はこの作品にユーモアは全く感じなかった。おじいさんではなく、「おじいちゃん」の言動がおかしいといえばおかしいが、特にユーモアがあるとは思わない。非常に生真面目に書かれており、そこまで書かなくてもいいのにと思うような残酷な場面もある。おそらく、残酷シーンの苦手な人には向かない小説だろう。
この長編で、主人公の兄の存在が見えたと書いたが、この兄の生き様をなぞって初めて、マクラウドの小説の中に、非常に人間らしい感情というものが感じられた。常に自然から受ける運命に身を委ねるしかないような感じであったのが、兄の積極的な感情によって、彼ら一族の中に強さと優しさを感じることができ、それがあることにより、作品が生きてきたように思える。短編では感じられなかったことだ。
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09月13日(火)
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