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Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review @ Tokyo
by Niseko-Rossy Pi-Pikoe
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■シン・ミヨシアキラ、顕現と祝福、2023年のセカイを射る、墓守の役割、




シン・ミヨシアキラ、顕現と祝福、2023年のセカイを射る、墓守の役割、


反戦の三部作だと?、世の中的に2023「反戦の」はすでにいかがわしい、ポップと訴求力、絶叫でも断末魔でも不協和音の狂乱でも、ない、部分部分が意匠となったあとに作品の骨格は残り、新たな思考を要請してくるような聴取体験、


技法や戦略や工芸を競うようになってきたきらいはある、こと現代音楽、おれが評価する骨格がある日本の現代音楽作曲家というのは鈴木輝昭と平野一郎と藤井喬梓だな、今のところ、


爆音オケに消される聴き取れない絶叫する合唱の衝撃波、レクイエム、1972、
宗左近のテキストを得て複雑構造アイアムザウォールス混沌を極めた、詩篇、1979、
童声かごめかごめに純化うしろのしょうめん、響紋、1982、


てきとー書いてんじゃねー、いんだよ、おれのメモだ、


史上二度目の三部作プログラム、38ねんぶり、終演後ホワイエ山田和樹の問いかけ38年前も聴いたひとー、38にん手が挙がる、おれも聴いていたぜ、うそだけど、


カッ!、四暗刻ツモ近藤誠一ばりに言いたいが、ラップもポップも装着したような三善晃に聴こえたぜ、キングヌーやミレニアムパレードの新構造との調和性まで感じたぜ、それは時代か?おれか?奏者か?山田和樹の纏った現代性か?それらこそが作品の骨格性だろうよ、のう、


WONK、King Gnu、millennium paradeで活躍する江封カ武がNHKFMで、現代音楽というのはオーケストラによって拡張する表現の領野だとか定義していた、わかってんじゃん、おれもそう思う、


三善晃だけだろう、いや、三善晃こそ、だろう、この江封カ武や常田大樹やことによると米津玄師や平沢進と音楽意識を対話できる相手は、


コンサートを体験しながら、そう、感じていた、いや、それはうそ、ナンナンダコレハ?と反芻する山手線で、輪郭した、体験の骨を拾い集めるように、


“パリ留学から帰国(1957年)、羽田が真っ黒、墨絵の世界に見えた時「まだ白骨が生々しくその辺に散らばっていて、それを拾い集めて僕なりの墓を建て、銘を刻んで墓守になる。」との想いが湧いた(三善晃、丘山万里子著『波のあわいに−見えないものをめぐる対話』春秋社、2006年)。”


白骨は今現在もその辺に散らばっている、


内神田の車庫から、神田明神のお祭りのアナウンス、警察の車両警告、神輿を担ぎに集まってきた地域住民のはつらつとした祝祭感覚、4年ぶりの神田祭り将門首塚神田明神、オイおれたちはなんでイカサマされてんだよフザケンナ、の中を神田駅に向かい山手線で上野公園口を出て東京文化会館に着いた、38ねん振りの三善晃三部作の公演、コロナカカと戦争、に、


素晴らしい指揮とオケと合唱だった、まったく新しい印象を与えた、初演の時代の表現を基軸にしたものではない、オケも合唱も表現する身体高度、解像度、は、21世紀のものである、わたしはこういう時代に生きているのだと現代音楽ジャンルにリアルに言われる事態というのは想定していなかった、すまない、ややも現代音楽は庭だと思ってきていた、ありがとう、全力で拍手、肩が痛い、スタンディングオベーション、止まらない拍手、腰が痛い、


だから、反戦の、なんかじゃねーんだよ、縄文からとまでは言わないが、日本語と日本史を、消された日本語と日本史を、


三部作は進化と純化、児童合唱団の無垢な存在感を見つめよ、彼らは未来じゃないか、安直なコタエなぞ無い、コンサートはわたしたちに生きろと言いつけてきた、やばいおれは死んでいた、こんなコンサートにケツを叩かれた長澤まさみみたいに、生きねばならない、おれは急いで山手線2番ホーム、大塚駅南口へ広州市場のワンタン麺を食べに興奮して歩き出していた、














05月13日(土)
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