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Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review @ Tokyo
by Niseko-Rossy Pi-Pikoe
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■古典芸能への招待 金春流 能「関寺小町 古式」
1000tracks御神輿、もしくは練行衆が読み上げる過去帳、
プリシアアンのマーニーの曲、マークアーモンド&ザマンバス Marc And The Manbas のキャロラインセッズ Lou Reedカバー、Blanly Jet City 綺麗な首飾り、Adrian Belew " She is not dead" 、木村弓、マッチングモウル track 1、
なにそれ!、これは神の御意志、行かねばならない、ならない、ならない、孫と行くしかないのか、
前衛派珈琲処マッチングモヲル
〒166-0003 東京都杉並区高円寺南3丁目45−1 永和ビル高円寺
つの考えが敬神崇祖・袖
しましても祭りの主になってしまったのであります。 神人合一の方面が、今では薄れて来 ていると云う風な感じがあると思います。 だから儀式ではあっても神宴という趣きは薄れ るのです。神は儀式をも、 神宴をも、併せ望ませられるのです。祭りは極度に厳粛にしな ければならぬと云うことを、余り貫いて行くと内容がなくなってゆくのではないかと思い ます。厳粛にするのは、祭りに与る人々の身辺の事で、神様との間に、厳重な垣を構えて はならぬ筈です。本とうにお祭りの時に、神を祭るには信心申し上げると云う事、即、出 来るだけ素朴な心に戻って、神を迎え申すのが、正しいのだと思います。 文化はどんどん 進んで行こうとも、神様だけはすべての点において、素朴がよいのだと思います。 神を素 朴な御方と見我々も素朴な感情や意思を持ち続け、周囲を素朴化する。神の目的を何か意 味づけること即、近代合理化することは信仰がうすれて行くことになると思います。お祭 りの時に、祭祀者の身にとって、一番大切な条件は 私も、神主の血筋は引いているの でございますが、宮司さん見たいに、代々の神主でないが、 -神道の方で、禁欲生活を
することであります。 それが所謂物忌で、物忌は仏教の精進とは違います。 神道の方で も、精進という意味で、神に奉仕する前に致す禁欲生活、それの漠然とした感じだけがあ って、非常に厳粛ではあるけれども、内容がなくなったのであります。 本とうのものがな くなったのであります。 神道の祭りでは物忌をしなければならぬので、社では実行して居 りますが、これは実行しすぎる程でもかまわぬので、そうしてこそ、本とうにそれが活き て来ると思います。
思想維新 まつりに就いて
昭和十八年九月「鶴岡」第十五号
折口信夫
今泉源吉
高佐貫長
座田司氏
折口 お話のお答えになるかど
ませんけれども、私が考えますのに、或点では、祭りが形式主義になって行きはしまいかと云う恐れをもっておりますが、やはりどう
したら我々の祭りらしい興奮が起って来るか、敬虔な心が起るか。今のお祭りでもそれは
起ってはまいりますが、私の短い一代の経験で申しても興奮が大分うすらいでいるように
思います。祭りの中に、自分達が一緒にあずかっていると云う気持がない、神主だけと云う気持が起って居ります。これは何とか考えなければよくないと思います。昔は祭りと神宴とは離れたものではないと考えるのです。神様がおいでになり、お迎えして色々な儀式があって、その後、座をなおして神宴をして、神様にもたのしんで頂き、自分達も楽しむのであります。だから儀式も神宴も分ちなく一つになって居る場合も多いのです。神様も御自身の興の進んだままの楽しみをなさるのであります。こういう風になって神様が御還 御になる、以上の如く、昔の祭りは条件が具備して居りますが現在の祭りは神宴の部分が、どうかするとぬけて居ります。古い御社へ行きますと、その神宴の部分が残って居ると思いますけれども、只今ではこれから神宴に入ろうとするときに切れてしまうので、真 実私の様な古代主義の者はお寂しいのではないかという気がするのであります。
new◆2022年2月27日(日)
「タルホピクニック」
王子・飛鳥山周遊
第一部 ギターを背負って飛ぶ練習 第21回
start 14:00 公園を歩く
飛鳥山公園 アスカルゴ山麓駅前集合
(ギターシエケレ、その他楽器ををお持ちの方、持参歓迎)
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02月27日(日)
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