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Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review @ Tokyo
by Niseko-Rossy Pi-Pikoe
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■「けーまがさ、高校生ん時、
それは例えば、フィールドレコーディングをどう扱うかということをめぐって虹釜太郎氏が述べる「セピア問題」ということに通じる。平板なピアノ曲の背景に、校庭で子供が遊んでいる音風景を重ねるとか、妙にキラキラしたエフェクトをまぶして多幸感と高揚感を演出するとか、演奏の背後に近所の夕暮れの気配が忍ばせてあり、そこはかとなく漂う郷愁とともに、何月何日どこそこで演奏したという遠い記憶の影を感じさせるとか。それは、音を、音の響きを、あるいはフィールドレコーディングを、音楽の額縁として使用し、都合の良い背景として音楽にセピア色の風合いを付け加えるだけの、まさに「ラノベ」的な安っぽさではないのか。そこに描かれるのは個人的な感傷の域を出るものではなく、ただの気障な演出にすぎない。音そのものに語らしめること、音そのものが「魂が宿ったかの様に生き生きと」語り出すこととは、まるで方向性の違うことなのだ。それ対して、たとえばAmephoneの、いつの時代なのかどこの街角なのかもわからぬ猥雑な音の織りかさねの様、あるいはmama!milkの『Quietude』の、いついずこかもしれぬ廃墟の響きそのものから演奏が引き出されていく様、さらにはMichel Donedaの、空間と相互に侵食し合いながら無限の奥行きに身を沈めていく様、そこには、「魂が宿ったかの様に生き生きと」音そのものが、音みずから語り出す様が立ち現れてくる。
アニメーションの原義がそうであるように、音そのものが「魂が宿ったかの様に生き生きと」語りだすためには、「音そのものをして語らしめる」という厳しさが必要なのだろうし、それは物語を運ぶ「メディア」やプロット組み立ての「素材」として音を扱わない、という厳しい態度の問題でもある。ありえない事物や風景にリアリティが宿るということ、それは、なにもアニメーションだけの話ではなく、音に関する話でもそうなのだと思う。
03月07日(火)
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