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Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review @ Tokyo
by Niseko-Rossy Pi-Pikoe
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 矢野弾左衛門の身分も「穢多(えた)」という「被差別民」でしたが、「士分(しぶん)」――武士ではないが、武士にも親しく仕えることができる高い社会的ステイタスを幕府から与えられていました。

 士分といえば、能楽関係者も士分とされていたことが有名です。室町幕府の将軍たちから好まれた能楽は、江戸時代でも「武家の芸能」として別格扱いを受けていました。

 その一方、それ以外の歌舞伎などの芸能関係者の社会的ステイタスは低く、「被差別民」の扱いでしたから、その総元締め・弾左衛門への献金をもって「上演許可」を得ることが必要だったのです。

■「瀬川」も、浄瑠璃奏者に抱かれるのを拒否

 大奥や高位の武家にも隠れファンを持つ江戸歌舞伎の宗家・市川團十郎(二代目)は、宝永5年(1708年)、弾左衛門から公演中に上演妨害をうけたことを町奉行所に訴え出て、弾左衛門からの独立を勝ち取っています。

 こうして『べらぼう』の時代には歌舞伎関係者も「被差別民」ではない、一般人――当時の言葉でいう「平人(へいじん)」になっていたのですが、それでも吉原の花魁など高級遊女たちは役者たちと親しく付き合うことはなかったそうです。

 何代目の瀬川かは不明ですが、松葉屋の瀬川が、自分に惚れこんだ常磐津節(浄瑠璃のひとつ)の名人・文字太夫からの「会いたい」というリクエストには応えてやったが、決して彼に抱かれようとはしなかった。つまり客が金をいくら積んでも、それだけでは吉原の花魁の心は動かなかったという逸話が「ちょっとイイ話」として、西暦18世紀初頭の『当世武野俗談』、幕末の『燕石十種』など、時代を超えた書物に見られるのです。しかし、これも現代的に見れば職業差別ではありますよね……。

■吉原も「官許の色街」として、役者とは一線を引こうとした

『吉原大鑑』などの書物には、「かわら者御法度の客にて御座なくといふ文言」を証書として提出した客しか座敷にも揚げなかったとするルールも見られます。そして吉原ではこうしたルールを、「かはら者」こと歌舞伎関係者が「被差別民」でなくなった後も踏襲していたのではないかと思われるのでした。

 補足しておくと、「かはら者」こと「河原者」は、昔から芸能の類が河原で行われていたことから発生した単語で、そこから転じて芝居関係者を低く見る表現でした。中世以来、河原といえばアウトローたちのたまり場で、処刑や売春も行われ、あまり行儀がよい土地ではなかったのですね。

 吉原もいくら格式高く見せてはいても、やっていることは売春の美化にすぎないのですが、江戸幕府から公認を受けた「官許の色街」というステイタスがあったのです。つい最近、「被差別民」から抜け出したばかりの役者たちとは一線を画そうということだったのでしょうか。

 江戸時代の日本は、現代からは想像もできないほどに身分と、それにまつわるステイタスによってがんじがらめだったのです。


04月08日(火)
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