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Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review @ Tokyo
by Niseko-Rossy Pi-Pikoe
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■「けーまがさ、高校生ん時、
新海監督の『言の葉の庭』。冒頭から、まるでビデオカメラで撮影した様な質感の風景描写が続く。風にそよぐ葉や、雨に打たれた庭園の木々、風を伴いながら池の表面を打ち付ける雨の描写は、もちろんそれなりに工夫が凝らされた繊細な描写であると言える。しかし、その画面を見ていくにつれ、そこは新宿御苑であることがわかってくる。またその背景に新宿の高層ビルが描かれ、さらに「アルコール持ち込み禁止」とか「Z会」の看板、「十六茶」とか「金麦」とかの固有名詞まるわかりのペットボトルや缶などが出てきて、一気に興ざめするのだ。そこに上乗せされていく、ありえないくらいベタな登場人物設定(ありえないから!雨の日の公園の東屋で美女と二人きりになって会話が生まれるなんて、自己愛性の妄想の中にしかありえないから苦笑!)。反吐が出そうになった。だが、新海作品のラノベ的な甘っちょろさや、自分酔いの安い物語性についてのディスリスペクト言辞は、ここまでに留める。問題にしたいのは、そういう次元の話ではないからだ。


問題は、この「魂が宿ったかの様に生き生きと」というところについて、どうも新海某は勘違いしているのではないか、ということなのだ。誰もが知っている、現実にいかにもあるような固有の風景を細かに描写することによって、ストーリーにリアリティを呼び込むことができると考えたのだとしたら、それは先に述べたアニメーションという表現の原義に反するふるまいだろう。例えば、宮崎駿がものすごくいいとも思わないけれども、少なくとも、彼の一連のジブリ作品には、どこでもないどこかの草原を風が吹き抜けていく描写、あるいは目もくらむ様な谷底を電車が通っていく様、またあるいは空を飛びながら見下ろす浅い海の底に雲の影が写っている様、そのどこにも奇妙に焦点が合っていてくっきり手に触れられるように見える様、または穏やかな日常の続きに魔的な状況が突然たちあらわれてハラハラしたり、夢のような辻褄の合わない展開になぜだかどうしてだか安堵したりという心の動き、さらには大空高く上昇し飛翔する重力や浮力の動きそのもの、そこから落下する身体感覚、、といった、ありえないような事物や風景が、まさに「魂が宿ったかの様に生き生きと」動きまわるのだ。あるいはほかには、実験的なパペットアニメの、ローファイといっていいような仕組みの面白さも、同様に、動くはずのないものがまるで「魂が宿ったかの様に生き生きと」そのキャラクターを演じ、そこにアニマが宿るところにこそ、面白さがあるのだと思う。このような、「魂が宿ったかの様に生き生きと」ということ、それそのものが物語を紡いでいく様は、想像力の産物たるアニメーションだからこそなしうる表現なのだと思う。つまり、新海某のように、モデルになった場所を明らかにして設定に親近感を持たせようとすること(そこから、かの「聖地巡礼」というものが生じてくる)と、どこでもない、どこにもない、ありえない事物や風景にリアリティが宿るのとは、まったく別のことなのだ。


このことが、なぜ自分の中で重要であったのか。

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03月07日(火)
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