ID:73064
かなしいうわさ
by 石井
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■俺のJahはエチオピアの皇帝じゃねえええええええ
6/17 ちょっと追記しました。
http://www.enpitu.ne.jp/usr7/bin/day?id=73064&pg=20100616






KusoBoyoBoyong氏と呑んだとき
ラスタはよいさ。でも、俺のJahはエチオピアの皇帝じゃねえ!
という話になった際に教えてもらったmixiコミュの口上が最高だったので転載。






http://mixi.jp/view_community.pl?id=438141

JAH NO DEAD!

▼スーダラスタ宣言


スーダラスタは、レゲエをこよなく愛すが、ラスタファリズムを支持しない。
ハイレ・セラシエは、とんでもない反動野郎であり、
そもそもなんでエチオピアの国王を日本人である我々が崇拝しなければいけないのか。
「ああ、諸君、人の人生のなんと短いことか!どうせ生きるなら、王を踏みつけて生きよう。」(シェイクスピア『ヘンリー四世』より)
我々が崇拝するのは、平均(たいらひとし)である。
彼こそが我々のジャーである。
「だれかを崇拝しすぎると、ほんとうの自由は、得られないんだよ。」(スナフキン『ムーミン谷の仲間たち』より)
でも平均は人間ではない。
植木等が演じる表象であり、我々の希望が具象化されたスクリーンの中の光影だ。


スーダラスタは状況主義者である。バビロン=スペクタクル社会(会社)の内部から、スーダラに抵抗する。
天性の不真面目さを持って、ゴマをすり、ホラを吹き、ペルークをし、ときには労働を拒否し、遊びながら、新たな状況を構築する。
スイスイスーダラスタ、スラスラスイスイスーイと下流社会を成り行きまかせに水平にデリーヴしてみせるが、
けっしてそれは受動的態度ではない。あくまで能動的に、だ。
映画『ロッカーズ』を見よ、貧乏なくせに余裕感たっぷりの似非ラスタたちが街をギラギラと漂流しているだろう。
「オレは歩くカミソリだぜ。近づくと危ないぜ」(ピーター・トッシュ『Stepping Razor』より)
スーダラスタは、街の似非ラスタ=ルードボーイの根拠なき楽勝感を愛する。
江原啓之もまだ指摘していないが、平均は、ウェイリング・ウェイラーズ時代のボブ・マーリーにオーラが似ている。


スーダラスタは、ラスタファリズムの転用である。
ラスタファリズムはキリスト教の転用である。
だからスーダラスタはキリスト教の転用の転用である。
グルグルである。
またスーダラスタは、仏教の転用である。
「分かっちゃいるけど、やめられない」とは浄土真宗の教えである。
我々は煩悩具足の凡夫/梵夫(ぼんぶ)なのだ。
さらにスーダラスタは、ヒンドゥー教の転用である。
「スーダラ」とはサンスクリット語の「シュードラ」、つまりカースト制度の最下層からの革命的転用である。
このように既存宗教のおいしいとことだけを剽窃し、自分だけの新しいスーダラ・スピリチュアリズムをつくりだせ。
そして誰とも共有せず、自分の心の中でこっそり育てよ。


スーダラスタは、スチャラカンナビストである。
「スチャラカ」と「スーダラ」の相性は抜群だ。
ラジカル・ガジベリビンバ・システムの宮沢章夫によって、この言葉は「スチャダラ」に合成され、
3人組のヒップホップクルーによって世に広められた。
ラスタがカンナビスを求めるように「スーダラ」は「スチャラカ」を求めるのだ。
よって、スーダラスタは、ジャーのガイダンスに従って、ガン・ジャーをスチャラカに肯定し、吸うダラに実践する。
ジャー(Jah)の頭文字で繋がるジャパンとジャマイカは、同じ神の草を共有するわけだが、
ジャーとはあくまで平均であり、決して皇帝や天皇ではない。


我々のジャー、平均には二人の父がいる。青島幸男と植木徹誠だ。

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06月09日(水)
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