ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■マンガ家・福本伸行の「ぼくがギャンブルを描き続ける理由」
『ユリイカ 詩と批評』(青土社)2009年10月号の「特集・福本伸行」より。
(福本伸行さんと大槻ケンヂさんの対談記事「『ドル箱』いっぱいの愛を!〜勝ち負けと、その先」の一部です)
【大槻ケンヂ:福本さん自身はギャンブルはやるんですか?
福本伸行:ほとんどやらないんです。とは言っても、ぼくは釣りとかはやる気がしなくて、やっぱり点数がつくもののほうが好きみたいなんですね。ゴルフも好きですけど、あれも点数がつくじゃないですか(笑)。点数がついて勝ち負けのあるものが好きなんですね。
大槻:その点で、ぼくには勝ち負けっていうのを否定したい気持ちがずーっとあるんですよ。つまり勝ち負けがあるということは負ける可能性があるわけで、「そんなの、いやだよっ!」って思うわけです。だからぼくの人生は「合気道人生」って言っているんですけど、合気道には勝ち負けってないんですね。ところが、『カイジ」とかは体制側が勝つか、持たざる側が勝つかの勝負じゃないですか。だから読んでいると「もしかして、俺も闘わなければいけないのではないかっ!?」と思ってしまって、ちょっと困ってしまったりもしましたね(笑)。
福本:ぼくは「そこは闘わなくちゃダメだろ」っていうマンガをずっと描いてきたわけで、やはり、「勝った負けたが面白い」っていう立場にある。だからギャンブルっていうモチーフがぼくには合うんです。
こどもの遊びにも勝ち負けってありますけど、それってある種の修行だと思うんですよ。例えばヨーロッパの紳士たちがカジノをするんですけど、それはギャンブルで負けたときでもいかに平静に振る舞えるかという鍛錬でもあるんですね。これはさらに言うと――なにかの本で読んだんですけど――死ぬための練習にもなるんです。つまり、人間がいずれ生物として必ず死ぬように、カジノでは必ず負けるときがくる。だから、ギャンブルで負けるっていうのは確定している死のための「擬似死」であり、その練習であるらしいんですね、そういうセンスは、でもたしかにぼくのなかにもあるんですよね。
(中略)
福本:そもそもぼくたちは仕事じたいがちょっとギャンブル的なんですよね。ギャンブルをあまりやらないって話をしましたけど、仕事がそれを代替しているようなところがある。つまり、マンガの連載を持つっていうのはある種の興業みたいなものだとぼくは思っていて、それがどれだけロングランになるか、小屋にどれだけ客が入るかっていうのは問題なわけです。芝居、舞台っていうのは、やっても客が入るかどうかわからないところに先行投資しるという意味で一種、ギャンブルなところがあって、同様に僕らのマンガも連載を立ち上げて、それが続くか続かないかっていうギャンブルなんですよね、ミュージシャンももちろんそうでしょうけど。
大槻:バンドを組むなんていうのもまさにそうですね。筋肉少女帯の場合はなんだかわからないけど良い駒が集ることはできて、20年以上やることができましたけど。
福本:なので、ギャンブルである以上は勝ち負けというのがあるんだけど、でも、そうしたなかで「勝ち負けは大切」っていうことと、「勝たなければいけない」というのに差異があることは自覚的でないといけないと思いますね。いまは後者の「勝たなければ意味がない理論」みたいなもの――それはある意味では正しいんだけど――ばかりが跋扈しつづけて、いわゆる負け組みたいなひとたちをゴミのようにみる風潮がちょっとあるじゃないですか。それは絶対に間違っていると思うんです。さっき言ったこととは矛盾して聞こえるかも知れないですけど、でもどんなに力をつくしても負けるってことってどうしてもあるわけで、そうして生まれた結果だけをみて非難するのは明確におかしい。】
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代表作『カイジ』『アカギ』をはじめとして、「ギャンブルを描くマンガ家」というイメージが強い福本伸行先生が、「自分ではほとんどギャンブルはやらない」というのは、けっこう意外でした。
作品のなかでは、あれだけ、「ギャンブラーの心理」を綿密に描写しているのに、あれはほとんど、福本先生の「想像」なのでしょうか。
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11月09日(月)
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