ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
[10025313hit]

■ある無名のデザイナーと、彼が描いた「おっさん」の伝説
『任天堂 “驚き”を生む方程式』(井上理著・日本経済新聞出版社)より。

【プラモデルなど工作や玩具も好きだった宮本は、絵心と造形への興味を同時に満たすことができる工業デザインを学ぼうと、金沢市立美術工芸大学に入学する。
 音楽を覚えたのはこの頃だ。ギターを独学で学び、友人とバンドを組んだ。下手ながらも友人たちと音を合わせる喜びを知った経験は、素人でもコントローラーを振るだけでセッションできる音楽ゲーム《Wiiミュージック》に生かされている。
 奔放に育ち、あらゆる遊びを経験した宮本は卒業を控え、地元・京都の玩具メーカーが何やら楽しそうに思えて、就職の面接に出向いた。当時の任天堂は、脱・カードメーカー路線の最中。ビデオゲーム市場へと乗り込もうとしている時で、任天堂としても美術や工業デザインを学んだ人間と必要としていた。
 かくして、1977年、24歳の時、宮本は任天堂に入社する。デザイナーとしての入社は、宮本が初。といっても、最初はポスターやパッケージのデザインなど小さな仕事ばかり。だが、入社4年目に転機が訪れた。伝説の始まりだ。

 もともと宮本はビデオゲームを作りたくて任天堂に入ったわけではないし、岩田のようにプログラミングができるわけでもない。そんな宮本がビデオゲームのクリエイターとして頭角を現したのは、1981年に米国向けに輸出された業務用ゲーム機だった。
 当時は、タイトーが発売した《スペースインベーダー》を契機にゲームセンターブームが日本中を席巻していた頃。任天堂もブームに乗じようと、業務用ゲーム機の開発を本格化させていた。同時に、1980年に発売した携帯型ゲーム機ゲーム&ウオッチもヒットしつつあり、任天堂は経営資源を2つのゲーム機に集中投下していた。
 1980年には米国法人のNintendo of America Inc.(NOA)を設立し、海外展開も図る。ところが、米国に輸出した《レーダースコープ》という業務用ゲーム機で大量の在庫が生じてしまった。
「新しいゲーム機を載せた基盤だけを送ってくれないか」。そう、米国法人から依頼を受けた本社が考えたのは、ゲーム&ウオッチ向けに開発していたゲームを、業務用に転用することだった。
 国内ではゲーム&ウオッチのブームに火がつきつつあり、米国の在庫の尻ぬぐいに新規の開発チームをあてている余裕はない。救済のネタを探した結果、浮上したのが、ゲーム&ウオッチの新作として開発中だった《ポパイ》である。
 米国生まれのポパイならば知名度もある。米国でだぶついている在庫の基盤をポパイと入れ替えれば、いくらかはさばけるだろう。そんな軽い気持ちのプロジェクトに、宮本は、たまたま上司から誘われていた。
 だが、このプロジェクトは、版権の問題でポパイとその仲間のキャラクターが使用できなくなってしまい、頓挫する。ただし、ゲームの舞台やルールなど、骨格は流用できる。であれば、代わりとなるキャラクターを考えればいい。そんなお鉢が、絵心のある宮本に回ってきた。
 宮本は、ポパイの代わりに「マリオ」を、オリーブの代わりに「ピーチ姫」を、ブルートの代わりに「ドンキーコング」の絵を描き、「ドンキーコングが樽を投げる」「マリオがジャンプして避ける」という新たなアイデアも提案、それが採用された。宮本の記念すべきゲームクリエイターとしてのデビュー作である。
 ちなみに宮本は、もともと決まっていた工事現場という舞台設定から作業服のキャラクターを想起し、粗いドット絵でもわかりやすいという理由でヒゲをつけたキャラクターを描いて、単に「おっさん」と呼んでいた。米国法人の社員に見せたところ、マリオという同僚に似ていると話題になり、そう命名された経緯がある。
 この業務用ゲーム機、ドンキーコングは、米国法人の在庫分どころか、それを上回る注文が相次ぎ、最終的に6万台を超える大ヒットとなる。ゲームをデザインする楽しみを知ってしまった宮本。ここから破竹の勢いで人気ソフトを生み出し、「世界のミヤモト」への階段を駆け上がることになる。

(中略)

 岩田(聡・任天堂社長)は宮本の強さの秘訣を、「肩越しの視線」と表現する。

[5]続きを読む

06月21日(日)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る