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活字中毒R。
by じっぽ
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■ブログは、”彼”を止められたのか?
『週刊SPA!』2008/7/1号(扶桑社)の鴻上尚史さんのコラム「ドン・キホーテのピアス・672」より。
(秋葉原での通り魔事件について、鴻上さんが考えたこと。「”彼”を止めたかもしれない、ブログの可能性」というタイトルがつけられています)
【犯人が、もし、短い文章ではなく、長文で自分の現状を嘆いていたら、ひょっとしたら、ネットの闇からなにかが返ってきたのかもしれなかったと思います。
犯人は、何度も自分のことを「不細工」と書きます。「不細工だから無視されて当然」とかね。
ここに、まず、「ぶさいく村」の僕はひっかかったのです。
僕は「ぶさいく村」出身として、何度も悔しい目に会ってきました。だから、合コンで負けないように、言葉を覚えました。「ハンサム村」出身の奴らが遊びほうけている間、本を読み、文章を磨き、やがて「言葉の愛撫師」というニックネームをもらうまでになりました。えっへん。
もちろん、最初はうまくないです。何度も失敗します。でもね、口説くのも友達を作るのも、全部、技術なのですよ。人間関係を作るのは、全部、技術、テクニックと言っていい。悪い意味で言ってるんじゃないですよ。スポーツはすべて技術でしょう。一部の天才をのぞけば、いえ、イチローのような天才であればあるほど、技術がどれだけ重要か分かっていて、そのための毎日の練習を欠かさないでしょう。で、技術は、練習すればするほど上達するのです。
でも、人間関係も技術だと僕は知っているのです。友達を作るのがうまい人、口説くのが得意な人、みんな練習ですよ。失敗して、言葉を獲得して、感性を豊かにするいろいろな映画や小説や芝居などを見てシミュレーションして、テクニックを向上させてきたのです。練習をしない人間関係の天才なんているわけない。
でも、「ぶさいく村」出身は、この練習の機会がものすごく限られています。ベンチにずっといる選手どころか、甲子園で三塁側の応援スタンドでユニフォーム着たまま応援している三年生ぐらいに、実戦を体験する機会が少ないの。ために、ものすごくたまに女性と話す機会が来ると、あんまり久し振りなもんだからガクガクブルブル緊張して、必ず失敗します。
そんな時にね、ネットの長文は、表現力を磨くいい場所になるのです。長文じゃないと意味ないですよ。だって、長文だから、技術が向上するわけです。短文だと、俳句みたいなもんで、どれが上手いか下手か分かんないでしょう。事実、俳句は芸術かどうか、なんて論争が昔、あったんですから。
短文は、ただ、自分の心情をそのまま吐露したものが多くて、読者としては面白くもなんともないですからね。
少なくとも、毎回、2000字前後の長文を書いていたら、間違いなく、表現力は向上します。「不細工は死ぬしかないんだよな」なんていう短文じゃダメですから。で、向上すれば、きっと、読者の一人か二人はつくのです。
人間が自暴自棄にならないで生き延びるためには、たった一人、いればいいんです。一人の人が見ていてくれると思えば、死なないのです。
でね、問題は、長文なんだけど、今の自分が、「ありたい自分」とあんまり違っているから、とりあえず今の自分を守ろうと思って書いている人の文章です。じつは、自分の価値を守ろうとすればするほど、自動的に、見るもの・聞くもの・読むものを否定するようになります。
本当につまらなく感じるようになるのです。自分の価値を守ることと、周りを否定することは正比例するのです。
僕たちは、残念なことに幸福より不幸に敏感です。肯定より否定が得意です。なにかの作品を否定することの方が、肯定するよりはるかに簡単です。で、そういう方向なら、長文は簡単に書けるのです。そういう文章には、残念ながら熱心な読者は一人もつかないでしょう。
だって、みんな否定にうんざりして、じつは、肯定をずっと求めているんですから。
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07月04日(金)
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