ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■『自殺してもいいですか』という「問い」へのプロのカウンセラーの答え方
『人の心はどこまでわかるか』(河合隼雄著・講談社+α新書)より。
(臨床心理学者・河合隼雄さんが、さまざまな現場ではたらく心理療法家たちの質問に答えたものをまとめた本の一部です。学習院大学助教授の川嵜克哲さんの質問に対して)
【川嵜さんはまた、「問う」こと、「問われる」こと、「答える」ことの重大さを指摘されています。
「いま、こうやって河合先生に『問う』ているわけですが、『問う』ということは恐ろしいことだと思います。『問う』ということは『問われる』ということでもあるわけですし、禅問答なんかをみてますと、なんか『殺しあい』というか(実際、『問う』ことと『殺す』ということは深い関係があるように思いますが)、命をかけてやっているなあという印象がします。カウンセリングにおいてのクライエントの『問い』も同様のことだと感じています。実際、クライエントがカウンセラーに、『治るんでしょうか』とか、『なにが原因なんでしょうか』、『自殺してもいいですか』などと『問う』てくることがありますが、このようなクライエントの『問い』に関してなにかコメントをいただけますでしょうか」
禅では、「答えは問処にあり」と言われます。つまり、答えは問うところにあるというわけです。川嵜さんにしても、いかにも質問しているようで、答えは自らもっておられます。問いの中に答えを内包しながら問うているわけです。アマチュアだったらこのような質問はしません。
「問う」こと「問われる」ことのこわさを感じていない人に、このような質問を発せるはずがないからです。
そういう意味では、クライエントの問いに対して、カウンセラーはものすごく考えなければならない。普通の意味での質問と答えとはまったく違った重みをもっています。ときには、そこに命がかかることもあります。
「治るんでしょうか」とか、「なにが原因なんでしょうか」というのは、クライエントが必ず聴いてくる問いですが、それに対しても、非常に多くの答え方があります。たとえば、クライエントが「なにが原因なんでしょうか」と聞いてきたら、たとえば因果関係がわりとはっきりしている外科の医師などは、その原因を明確に答えようとしますが、私たちの場合は、「うーん、なにが原因なんでしょうかね」と、同じ言葉を返すことが多い。前述した「アンサリング・バイ・アスキング」です。そうすると、クライエントが自分で考えようとします。
ただ、そのときに、「あなたはどう思いますか」というふうに返すと、相手を突き放したことになります。クライエントは、「そんなことは自分で勝手に考えろ」と言われたように受けとります。そこを、「うーん、なにが原因なんでしょうかね」と答えれば、相手は、「ああ、この人も考えてくれているんだな」と感じます。「私も考えるし、一緒に考えましょう」という雰囲気をつくることが重要なのです。
もちろん、そればかりやっているわけではなく、「なにが原因なんでしょうか」と言われたときには、「私は原因には関心を持っていません」という答え方もできます。そうすると、相手は、おっ、これはちょっと変わった人だな」と思い、そこに共感の場が生まれてくることもあります。
このように、そのときその場でいろいろな答え方があります。クライエントから問われたときに、答えはたくさんあるのに一つとか二つしか思い浮かばないとしたら、それはアマチュアです。相手はすぐに見抜いてしまうでしょう。】
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僕はカウンセラーではないのですが、初対面の人と話をする機会が多い職業についているので、この本、非常に興味深い内容でした。自分のことを「聞き上手」だと思い込むことの危険性も含めて。
この「答えは問処にあり」という言葉と、「なにが原因なんでしょうか」という「問い」に対する答えかたについての河合さんの解説は、プロのカウンセラーではない僕にとっても、すごく参考になりました。
誰かに「悩み事相談」をされたとき、僕もこの「あなたはどう思いますか」っていうのを、けっこうよくやってしまっていたんですよね。
そういう答えかたが、「相手の考えを引き出すための真摯な姿勢」だと思い込んでいたのです。
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04月25日(金)
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