ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■すなわち、私はモンゴルという土地に完敗を喫したのだ。
『ザ・万歩計』(万城目学著・産業編集センター)より。
(文中の「タイガ」とは、針葉樹林帯のことで、モンゴル語で「森」を意味する言葉(万城目さんが行った「タイガ」は、モンゴルの首都ウランバートルから車で3日、馬で2日かかったそうです)です。そして、「ツァータン」とは、タイガに住んでいる「トナカイを飼う民」という意味だそうです)
【人間にとって、もっとも豊かな生活――それは自給自足の生活、などと知った口を叩き、モンゴルへ飛んだ私。
晴耕雨読。緑に囲まれ、心健やかに、風雅で優雅なエコ生活を送ろうと夢見て、モンゴルを目指した私。
愚かであった。あまりに愚かであった。
実際にモンゴルの地に渡り、私がしたことは、観光でもなく、旅行でもない。労働だった。
淡々と一日中働いた。何のため? 食べるためである。
朝、起きる。朝食を食べなければならない。気温はマイナス近いテントの中で火をおこす。お湯を沸かして、調理する。食材はウランバートルの市場でしこたま買って、馬に積んできた。肉類は、タイガでは手に入らない小麦粉や砂糖と交換に、ツァータンから分けてもらう。ツァータンはその肉を狩猟によって手に入れる。雪が降ると、ツァータンは背中に銃を背負い、トナカイに乗って狩りに出かけた。動物の足跡が雪に残るからだ。雪の向こうにゆらゆら揺れながら消えていく、白いトナカイに乗ったツァータンたち。ほとんど、この世の眺めではなかった。
朝食を終えると、次は昼食の準備だ。川で水を汲み、燃料となる薪を割る。切り倒され、乾かされている太い丸太を、ノコギリで40センチほどに切り出し、斧でぱこんぱこんと割っていく。
されども、こちらはどこまでも無能な日本人である。なかなかノコギリを上手に扱えず、斧を真下に振り下ろせない。そのうち、最初はニコニコしながら見ていた、中学生くらいのツァータンの少女たちに、
「ああ、チンタラ鬱陶しい。見てられんわ!」
と怒った顔でノコギリを奪われ、
「こうやるの、わかる?」
と手本を示される体たらくである。
昼飯を終えると、また薪割りだ。水を汲みがてら、子供たちにこの木の傷はクマの爪痕だ、などと教えてもらっているうち、すぐに夕食の準備の時間が訪れる。
もちろん電気は通っていないので、空に太陽が出ている間が人間の活動時間だ。日照時間のうち、3時間はメシを食べ、3時間は調理し、2時間は薪を割って、水を汲む。ほとんどの時間をメシのために使っている計算になる。ときどき外出して、ユリ根を掘りに行ったり、ジャムを作ろうとベリー類を集めに向かったりするので、さらにメシ関連時間は増加する。
それにしても、肉体労働のあとのメシはどうしてあんなにウマいのか。材料は限られているのに、信じられないくらいウマい。食べ終わるとすぐに腹が減る。腹が減るから、次の食事の準備のためにまた薪を割る。ついでに子供と遊ぶ。
モンゴル語が話せない私は、昼間ツァータンのテントで塩味のミルクティーを飲みながら、大人たちと四方山話にふける、ということもできないので、もっぱら7、8人はいる子供たちの相手をさせられた。
いつになっても終わらぬ鬼ごっこ、リスを犬が捕まえてくると全員で皮剥ぎショー、夜はロウソクを灯してお絵かき教室、モンゴル語レッスン。自分一人でゆっくり思索に耽る時間など、どこにもない。
タイガにやってきて数日が経った昼下がり、私はハタと気がついた。
自給自足とは何もしないでよい生活ではない。
常に身体を動かし、始終何かをし続けなければならない生活なのである。しかも、私たちは食材を買ってきているため、実際は何ら自給自足ではない。これで遊牧の仕事が入ったら、遊ぶ時間すらなくなるだろう。
少しだけ古い時代の生活に戻り、私はようやく理解した。
非力な者も、病気がちな者も、動物を扱うのが苦手な者も、農作業が苦手な者も、個体間に現れる偏差を最低限に抑え、誰でもとりあえずはそこそこの生活水準を保ち、そこそこの余暇を得ることができるよう、我々のご祖先はせっせと現在の社会を構築してきたのだ。そのご先祖様の成果を否定し、自分探しだ何だとうつつを抜かす私は、何というたわけ者か。
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04月15日(火)
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