ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■「日本の喜劇王」の息子の葬儀で起こった「悲劇」
『自伝の人間学』(保阪正康著・新潮文庫)より。
(「日本の喜劇王」と呼ばれた「エノケン」こと榎本健一さん(1904-1970)の自伝『喜劇こそわが命』について。この自伝は、榎本さんが亡くなられる3年前、63歳のときに出版されたものだそうです)
【エノケンの妻からの直話では、エノケンは終生「笑う」のはお客であり、自分ではないと信じていたという。彼は、私生活でもめったに笑わなかったともいう。なるほど、彼の顔面にあらわれていたあの皺は、お客を笑わせつづけたあげくの勲章であろうが、ひとたび自分の時間になるとその皺は、憂いにむすびついていたのである。
昭和30年代に、私は少年期から青年期になったのだが、その折りになんどかエノケンの映画や舞台を見た。それまでの軽妙さは知る由もないが、私には、彼の芸はすこしも面白くなかった。私たちの年代には、もうアピールするものがなかった。むしろスクリーンや舞台でふと見せる素顔のほうに、私の関心は魅きつけられたほどだった。
エノケンにとって、お客が笑わないのは何にもまさる苦痛であった。
<観客が、倅の死んだことを知って、僕がどんなおかしなことをしても全然笑ってくれなかった。おかしなことをやればやるほど、場内はシーンとなってしまうのだ>
と自伝で語っているエノケンには、喜劇役者の底知れぬ業がひそんでいる。
映画監督山本嘉次郎の『春や春、カツドウヤ』には、エノケンが一人息子を失ったときの葬儀の様子が書かれている。エノケンの自宅の前には、見物人が会葬に訪れるタレントや俳優を見ようと集まっている。そこに息子(B一)の棺がでてくる。そのときの様子を、山本は次のように書くのだ。
<B一君の棺が門から出てきた。その棺に手をかけて、エノケンは嗚咽した。すると見物人から、ドッと笑い声がおこった。「やア、エノケンが泣いてやがら……」。私はこのとき、喜劇役者の負わされた切ない宿命を知った>
エノケンの自伝は、喜劇役者の深い哀しみがあらわれている。正直な人間が、実生活ではなにひとつ演技ができず、舞台や映画でのみ演技を続ける生活を送ったあとに、現実に足払いをかけられ、そのことを自覚しはじめた苦しさが凝縮されている。】
参考リンク:榎本健一 - Wikipedia
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芸人さんの葬儀では、ときどき、「湿っぽいのは嫌いな方でしたし、笑顔で送り出してあげましょう」なんていう会葬者への言葉がみられることがあるのですが、このエノケンさんの場合は、亡くされたのが若かった息子さんということもあり(享年26歳)、やはり、嗚咽せずにはいられなかったのだと思います。
その葬儀で「タレントや俳優を見るために集まってきた見物人」たちに「やア、エノケンが泣いてやがら……」と「笑われた」ときの彼の心境は、非常に複雑なものだったにちがいありません。
現代の感覚からすれば、いくらコメディアンであっても、若くして子供を亡くした人を葬儀の際に「笑う」なんていうのは非常識というかあまりにも残酷ですよね。
しかしながら、一方で、息子さんが亡くなられた日にもステージに立ったエノケンには、こんなエピソードも残されているのです(この引用部は某掲示板に書き込まれていたものなので、詳細は事実と異なるかもしれませんが、複数の資料に同様のエピソードが記載されています)。
【昭和の喜劇王・榎本健一(エノケン)さんがひとり息子を結核で亡くした日、それでも舞台に穴を空けなかった。
いつも通り開演と同時に、ステージで「イ〜テッテッテ〜、こけちゃった〜♪」と
コミカルな動きで現れた彼に、お客さんがみんな泣きながら
「エノケン!もういい、早く帰れ!帰ってやれ!」と叫んだんだそう。】
このときのことを、エノケンさんは、自伝では「お客さんは全然笑ってくれなかった」と書かれているそうです。いや、観客の立場としては、ステージの上で彼が「おもしろいこと」をやろうとすればするほど、「かわいそうで観ていられない」のではないでしょうか。まあ、そう言いながら、みんな観に来てはいるわけですけど。
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01月25日(金)
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