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活字中毒R。
by じっぽ
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■『FF』の生みの親、坂口博信氏が語る「『ファイナルファンタジー』との20年」
『週刊ファミ通』(エンターブレイン)2007/12/21号の記事「坂口博信氏が語る『ファイナルファンタジー』」より。聞き手は浜村通信さんです。

【浜村通信:いまさらこれを聞くのは、ちょっと照れくさいのですが(笑)。改めて、『FF(ファイナルファンタジー)』を作ったきっかけを教えてください。

坂口博信:長年つき合ってきた浜村さんの質問とは思えない(笑)。それは、何度もお話していますが、当時『ドラゴンクエスト』がビジネスとして成功を収めて、「ファミコンでRPGが作れる」とみんな気づいたんです。僕もその中のひとりですが、当時は『ヘラクレスの栄光』や『星をみるひと』など、開発中のRPGが4本程度発表されており、『FF』もそうした『ドラクエ』に続く、チャレンジャーの中の1本でした。

浜村:でもファミ通では、『FF』をほかの作品よりも大きく扱っていましたよね?

坂口:ええ。いまなら言っても大丈夫でしょうが、当時、開発中のROMを持って”ファミリーコンピューターマガジン”の編集部へうかがったんです。そしたら、門前払いされて(苦笑)。

浜村:え!

坂口:そんなソフトは扱えないと。でも、ファミ通だけは大きく取り上げてくれたんです。そこは、いまでも本当に恩を感じていますね。

浜村:当時は何人で作られていたんですか?

坂口:僕と宣伝担当の竹村、企画の石井浩一(『聖剣伝説』シリーズの生みの親)と浅井、プログラムのナーシャ・ジベリ、ドット絵を描いた渋谷員子、そして音楽の植松伸夫(『FF』シリーズの作曲家)。立ち上げはこの7人ですね。当時、同じ社内で別のゲームを開発していた田中弘道(『FF11』プロデューサー)のチームは最初から20人くらいいましたから、人気のなさがわかりますよね(笑)。

浜村:不遇な状況から始まっているんですね。

坂口:本当に人気のない……(笑)。僕がついスタッフにきびしく当たってしまうので。でも石井は、竹村が「このチーム、ダメなんじゃない」って言ったことを聞いて、逆にがんばる気になったらしい(笑)。

浜村:それは、このチームではヒット作は作れないという意味だったのですか?

坂口:少人数でしたし、売れないと思ったんでしょう。『ファイナルファンタジー』というタイトルも、これが売れなかったら最後にしよう、籍を残していた大学へ戻ろうという気持ちの表れで、まさに最後のファンタジーという意味でつけていましたから。留年をくり返していたので、大学へ戻ったとしても友だちなどはいないという、本当にファイナルな状況だったんですが(苦笑)。

浜村:そんな”最後”と名づけた作品が、いきなり40万本近いヒットとなるわけですね。

坂口:それが、最初の出荷は20万本の予定だったんです。当時は、ROMの生産に2〜3ヶ月かかっていたので、初期出荷イコールそのタイトルの販売本数という状態になる。だから社内でケンカして、「これだけのソフトは二度と作れないから、40万本作ってくれ」と言い張って。億単位の費用が発生するので、会社としてはものすごい冒険だったのに、当時は「金なんかなんとかしろよ」くらいにしか思っていませんでしたね(笑)。でも、あれだけのヒット作になったのは、当時の経営陣が体を張ってくれたおかげですので、いまは感謝していますよ。

(中略)

浜村:続編は『2』などの偶数を作るチームと、奇数を作るチームに分かれるという、ずいぶん変則的な方法にしていましたよね。

坂口:シリーズというのは、『2』で方向性が決まりますよね。その当時は大きく変えたいというのが自分たちの気持ちで、変えていくのが『FF』だ、ということにしたかった。とくに具体的な理由はありませんでしたが、以降にも受け継がれていきましたね。あとは『1』『2』『3』と、同じ機種でも技術の進歩でできることが増えていったので、それを使いこなさないとダメだという思いもありました。もし、技術の進化がなかったら、『FF』の進化もなかったかもしれません。

浜村:『FF』は、ハードの進化とともに、大作になっていくイメージがありましたね。


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12月20日(木)
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