ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■芥川賞・直木賞を辞退した作家の「辞退理由」
『文藝春秋』2007年3月号(文藝春秋)の記事「芥川賞10大事件の真相」(湯川豊著)より。

【芥川賞直木賞の長い歴史のなかで、戦前・戦中のことではあるが、賞の辞退者が1人ずついた。
 第11回芥川賞(昭和15年上期)は高木卓の「歌と門の盾」が受賞作に決定したが、高木は「2日考えた末」辞退した。高木卓(本名・安藤煕(ひろし))は一高のドイツ語の教授、「歌と門の盾」は大伴家持を主人公にした歴史小説だった。
 菊池寛はこの受賞辞退について、「話の屑籠」(同年9月号「文藝春秋」)で怒りを書きつらねた。いわく、
「審査の正不正、適不適は審査員の責任であり、受賞者が負ふべきものではない。活字にして発表した以上、貶誉は他人に委すべきで、賞められて困るやうなら、初めから発表しない方がいいと思ふ」
 文壇の大御所といわれた人らしい発言だが、高木の辞退理由もなんだか歯切れが悪かったのも事実である。
 辞退理由の真相らしきものは、意外にも次の第12回芥川賞を「平賀源内」で受賞した、櫻田常久の「感想」(受賞のことば)で明らかになった。高木と櫻田は同人誌の仲間であり、高木は櫻田の「かい露の章」が同じ11回の候補になっていると思いこんでいた。そして自分が辞退すれば、先輩である櫻田が受賞できると考えたようである。「かい露の章」は最終候補作に残っていなかったのだから、ちょっと痛ましい誤認だった。
 直木賞のほうは、第17回(昭和18年上期)、「日本婦道記」の山本周五郎の受賞辞退である。山本は「辞退のこと」という一文を寄せて、いった。
「……自分としてはどうも頂戴する気持ちになれませんので勝手ながら辞退させて貰ひました。この賞の目的はなにも知りませんけれども、もつと新しい人、新しい作品に当てられるのがよいのではないか、さういふ気持がします」
 山本は戦後、すでに大家といわれるようになってからも、毎日出版文化賞、文藝春秋読者賞を辞退している。生涯無冠、反骨の作家であることを貫いた。

(中略)

 ここからは戦後の話になる。昭和20年から23年の空白の後、芥川直木両賞は24年第21回から再開された。
 第28回(昭和27年下期)の芥川賞は、五味康祐「喪神」と松本清張「或る『小倉日記』伝」の2作だった。2作とも直木賞系の色あいがあるし、五味、松本のその後の作風から考えても、小さからぬ驚きがある。実際、この受賞をめぐって、芥川賞と直木賞の境界についてさまざまな議論が起った。
「或る『小倉日記』伝」じゃ、当初直木賞の候補作だった。前回から直木賞の選考委員になっていた永井龍男が、選考会の席上で「これは芥川賞候補に回したらどうか」と提案し、会の諒解とともに芥川賞候補になった。当時は両賞の選考会が別の日に開かれていたので、こんなことができたのである。
 松本清張がのちに書いたエッセイ「賞と運」によれば、事前に直木賞候補になった通知を受けていた。北九州小倉に在住していた松本は、1月21日の夜、ラジオを聴いて、直木賞は立野信之「叛乱」が受賞と知った。2日後、夜遅く帰宅すると、朝日新聞の記者が待っていて、芥川賞の受賞を知らせた。松本は、自分は直木賞の候補だったはず、と腑に落ちない。そこで友人の名前をかたって毎日新聞の小倉支局に電話してみた。以下は「賞と運」から引用。
「『たしかにその方が芥川賞になられました。あなたは受賞者のお友だちだそうだが、おめでとうございます』
 と電話で祝福を云われた。そこで初めて本当だと納得したのだが、さすがにその晩は昂奮した。1月23日の夜遅く子供を連れて、冬の満天の星が冴える下を昂る気持ちで歩いたのを憶えている」(記録によれば、直木賞が決定したのは1月19日、芥川賞は1月22日だが、いまは松本の文章のままとしておく)】

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02月13日(火)
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