ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■職業翻訳者にとっての「アンフェア」と「ネタバレ」
「特盛!SF翻訳講座〜翻訳のウラ技、業界のウラ話」(大森望著・研究社)より。

【とくにジャンル小説の場合には、そのジャンルの読書量がものを言う。SFにはSFの、本格ミステリには本格ミステリの、ファンタジーにはファンタジーの約束事があり、それを知らずにいると、翻訳もとんちんかんなものになりがちだ。
 たとえば翻訳ミステリなら、描写のフェアネス(読者に錯覚させるためのウソを地の文に書いてはならない)をきちんと理解して訳さないと、フェアなミステリがアンフェアなミステリになってしまったりする。
 第二回本格ミステリ大賞を受賞した『乱視読者の帰還』(みすず書房)収録のクリスティ論「明るい館の秘密」で、若島正氏が明晰に指摘する『そして誰もいなくなった』(ハヤカワ・ミステリ文庫)翻訳上の問題点は、その典型的な例。クリスティが駆使する叙述トリックに翻訳者までひっかかってしまったために、小説を注意深く読めば論理的に指摘できるはずの犯人が、翻訳だけを読んでいると指摘できない(本格ミステリとしては重大な瑕疵をはらむ)結果になっている。
 もちろん、ここまで高度な読解を要求する小説はそう多くないけれど、こうした叙述トリック的な手法(表面に書いてあることと、作中で実際に起こっていることが違う)自体は、ミステリ以外の小説でもわりとよく使われる。僕が最近翻訳した本の例で言うと、コニー・ウィリスのタイムトラベルSF、『犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎』(早川書房)でも、冒頭にちょっとした叙述の遊びがある。本文第一行は以下のとおり。

 There were five of us―Carruthers and the new recruit and myself, and Mr.Spivens and the verger. It was late afternoon on November the fifteenth, and we were in what was left of Coventry Cathedral, looking for the bishop's bird stump.

 ふつうなら、「そこにいたのは僕ら五人だった」とでも訳しはじめるところだが、そう簡単には行かない理由がある。主人公たちは、空爆によって廃墟と化したコヴェントリー大聖堂で、the bishop's bird stumpという謎の何かを探している。一行のひとり、Mr.Spivensは、わき目もふらず黙々と瓦礫の下に穴を掘り続けている――のだが、第一章のラストで、「彼」は、人間じゃなくて犬だったことが明らかになる。本筋とは関係のない軽いサプライズだが、一人称の語りを額面どおり真に受けてはいけませんよというヒントにもなっている。
 この場合、最初に「五人」と訳してしまうとアンフェア(地の文にウソを書くこと)になるし、かといって「四人と一匹」と訳すとネタバレ(作者が意図的に隠しているトリックをばらしてしまうこと)だ。ウィリスは描写のフェアネスのルールを守りつつ、Mr,Spivensが人間だと読者が錯覚するように書いているわけで、訳文でも、最後のところで読者に「え? 犬だったのかよ!」とびっくりさせるように配慮が求められる。
 小説の翻訳は、原作者のこうした意図を正しく読解するところからスタートする。英語の文章を日本語に置き換えただけでは、まだ翻訳とは呼べません。作者が読者に提供しているサービス(びっくりさせる、怖がらせる、泣かせる、騙す、怒らせる、はらはらさせる、しんみりさせる etc.)を日本の読者に日本語で提供すること。それが職業翻訳者の仕事なのである。文法的な正確さにばっかり気をとられていると、肝心の読ませどころをはずしてしまうことになりかねない。逆に言うと、小説がちゃんと読めてさえいれば、細かいところに少々誤訳があっても大丈夫。「木を見て森を見ない」のではなく、まず正しく森を見てから、一本一本の木に注意を払うこと。森が見えていれば、それほど大まちがいをする心配はありません。】

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05月22日(月)
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