ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■「ヤンキー先生」が語る”いい先生”論
「週刊アスキー・2005.9.6号」の対談記事「進藤晶子の『え、それってどういうこと?』」より。
(現在は北星学園余市高校を退職されて、横浜市の教育委員をされている、「ヤンキー先生」こと義家弘介さんとの対談の一部です。)
【進藤:北星学園余市高校(以下、北星余市)をお辞めになるまでには、誹謗中傷などもあって、たいへんだったとうかがっています。辞職を決意されたきっかけはなんだったんでしょうか。
義家:結局、私のことをめぐって教師集団が揺れたことですね。これはいつも言っていることなんですが、”いい先生”なんていないと思うんです。誰かにとって素晴らしい先生でも、その先生と相性が悪ければ、どうでもいい人にしかすぎない。
進藤:ふむふむ。
義家:みんなにとっていい先生になるよりも、いい教師の集団をつくっていくことが教育の核だと思うんです。でも気づいたら、自分の存在が、その集団を動揺させる原因になってしまっていて。あと、北星余市の教師集団に対する信頼もあったから、自分がいなくなっても大丈夫だろうという思いもありました。
進藤:揺れるきっかけは、義家さんの活動が本やドラマ、映画にもなり、全国的に注目を集めたこともあったからと報道されました。
義家:ただ、活動せざるをえない状況があったんです。’01年に北星余市の生徒79人が絡む”大麻事件”がありまして、それで生徒がまったく学校に来なくなってしまったんです。だから、母校である学校を守らなければという思いと、先生た生徒たちが、どんな思いで問題と向き合っていったのかを伝えるために。】
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「ヤンキー先生」こと、義家弘介先生。僕は正直、あの手のドラマに対しては、「そんなの、ヤンキー経由じゃなくて、地道にがんばっている『普通の先生』のほうが、はるかに立派なんじゃないか?」と言いたくなるのですが、この対談記事を読んで、彼に対するイメージがけっこう変わりました。
まあ、途中のプロセスはさておき、「ヤンキー先生」は、「教育」というものに対してキチンとした自分の考えを持っているし、その一方で、先生という存在を客観的にみているところもあるのだなあ、と感心したのです。
この手の「いい先生」って、「自分」を相手に押しつけたがる人が多いような気がしていたので。
【”いい先生”なんていないと思うんです。誰かにとって素晴らしい先生でも、その先生と相性が悪ければ、どうでもいい人にしかすぎない。】という言葉に、同じように人間相手の仕事をしている僕は、深く頷きました。世の中には、「とにかくかまって欲しい」人もいれば、「なるべく放っておいて欲しい」人もいるし、しかも、そのどちらの人でも「放っておいて欲しい」と思うこともあれば「かまって欲しい」と思っていることもあるのです。怒られると萎縮してしまう人がいれば、しかられると相手の「熱意」に感動する人もいます。それこそ、ケースバイケースで、その相手ごとに自分のキャラクターを変えられればいいのかもしれませんが、現実的に、それをすべての人間に対して完全にやっていくのは不可能です。
「ヤンキー先生」は、そういう現実に対して、【みんなにとっていい先生になるよりも、いい教師の集団をつくっていくことが教育の核だと思うんです。】と仰っています。確かにそうなんですよね。ひとりの何でもできる「スーパーマン」がいるより、それぞれがレベルアップして、お互いの不得意な部分をカバーしあっていくほうが、誰かが抜けたとしても「教育」の全体としてのレベルはずっと保たれていくし、生徒も「自分に合った先生」を見つけてしまえばいいわけです。
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08月31日(水)
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